SNSを仏教的に分析!? 今回、浄土真宗本願寺派の僧侶・日下賢裕(くさか・けんゆう)さんが思考を巡らせたのは、SNS。有象無象うごめく様々なSNSに感じた、ある仏教観とは!?
皆さんはどんなSNSを普段利用していますか。私は現在、FacebookとInstagramを利用しています。過去にはmixiにはじまり、Twitterも利用していましたが、今ではどちらかと言えば、自分からSNSで何かを発信するよりも、情報を得るためにSNSを利用しています。
ちなみに、Twitterはいろいろ思うところがあり、現在休止中。まだアカウントは残してありますが、ほとんど開くことはなくなりました。今回は、そんな経験を通して感じたことを元に、SNSについてぼんやりと考えてみました。
SNSはまるで「六道」の世界?
多くの人は、一つだけではなく、いくつかのSNSを同時並行して使っているのではないでしょうか。
そして、SNSによって使い分けをすることは共通認識となっているように思います。たとえばInstagramでは日常の楽しい部分、俗に言う「映え」を中心とした投稿がメインに。一方Twitterでは日常生活の中の愚痴や不満のはけ口のような使い方や、「バズる」ことを目的としたネタ的な要素を盛り込んだ使い方がなされます。Facebookでは、仲間内での近況報告のような要素が多い、そんな印象を受けます。
これらSNSの特徴や、そこに映し出される人たちの姿を見ていると、ふと「六道」と呼ばれる世界を思い起こしました。「六道」とは、インドに見られた世界観。「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天」の6つの世界があり、生前の行い(=業)によってこれらの世界を生まれ変わっていく(=輪廻する)という死生観です。
まずはざっくり、この六道がどんな特徴の世界かを、ひも解いてみましょう。
・天 :享楽に満ちた世界。ただし、五衰と呼ばれる苦が存在する世界
・人間:四苦八苦の世界
・修羅:怒りと争いの世界
・畜生:弱肉強食、常に命の危機に苛まれる世界
・餓鬼:常に飢え続け、渇き続ける、貪りの世界
・地獄:常に様々な責め苦によって苦しめられる極限の苦の世界
これらを踏まえた上で、SNSに当てはめてみたいと思います。
・天=Tiktok
ただただ楽しいだけの世界。でも年配層がやってると痛々しくて疎まれる。
・人間=LINE、Facebook
人間関係のあれこれが渦巻く、愛別離苦、怨憎会苦の世界。
・修羅=Instagram、YouTube
キラキラNo.1争いが繰り広げられるインスタ、視聴者数争いが繰り広げられるYouTube。
・畜生=Twitter
俺こそが正しい。俺こそが正義。専門家よりもとにかく自分こそが正しい世界。
・餓鬼=Twitter
もっと「いいね」を! もっとインプレッションを! 詳しくはプロフに!
・地獄=Twitter
いつもどこかで誰かが燃えている、無間炎上地獄。あらゆる欲望が渦巻き、自害害彼、傷つけ傷つけられる世界。あるいは誰にもリアクションをもらえずこの上ない孤独すら感じることも。
と、これはあくまで私の偏見に基づいたイメージであり、Twitterがまさかの三悪道(地獄餓鬼畜生)をフルコンプしてしまうのはちょっとやりすぎたかな、という気もしますが、概ねこのような状況になっていることは、皆さんも感じているのではないでしょうか。そしてこのSNSの世界を日々経巡っているのが私たち、と考えると、私たちは常にSNSという六道のような世界を輪廻し続けていると言っても過言ではないのかもしれません。
バズってもバズらなくても
SNSの世界に、いろんな楽しさがあることは間違いありません。しかしその裏側には、「バズりたい」「もっと〈いいね〉が欲しい」という貪りの心(貪欲)や、「ムカつく、腹立つ、キモい、ウザい、ズルい」というような怒りの心(瞋恚〈 しんに/しんい 〉)、「コイツは間違ってる、俺の方が正しい」という無知・愚かな心(愚痴)が渦巻いています。私自身もTwitterを利用する中で、このような「三毒」の煩悩に取り込まれていました。また、知らない人の言葉に傷ついたりモヤモヤと悩まされるようなこともあったり、逆に知らず知らず自分の言葉で人を傷つけてしまった場面もあるでしょう。
楽しむはずのSNSに振り回されてしまうことも……
もちろん、SNSの活用がうまくいき、自分の「承認欲求」が満たされたり、活躍の機会が増える可能性もあるでしょう。しかし、ひと度「承認欲求」が満たされたり、人気コンテンツが生まれたとしても、満足して終われるわけではありません。また新たな欲求を満たしたり注目を維持すべく、次の投稿、次のコンテンツを準備する必要もあります。それを楽しめるうちはいいですが、次第にネタもなくなり、だんだんと苦しくなっていってしまう。SNSで人気を集めるインフルエンサーも、一見華やかそうに見えるその裏側で、ひょっとすると悩み苦しみを抱えているかもしれません。
『仏説無量寿経』というお経には「田あれば田を憂い宅あれば宅を憂う(中略)田なければまた憂えて田あらんことを欲し、宅なければまた憂えて宅あらんことを欲す」という言葉があります。田畑や家財が有れば、その維持管理に心を砕く必要があります。しかし逆に無ければ無いで、それを求める苦しみが生じます。現代的に言い換えれば「バズあればバズに憂い、いいねあればいいねに憂う。バズなければ憂いてバズあらんことを欲し、いいねなければまた憂いていいねあらんことを欲す」となるでしょうか。有っても無くても、そこに執着する限りは、結局苦しみに繋がってしまうというのが、この教えです。
気軽に解脱できる方法!?
SNSは「六道」と同じように、苦しみの世界です。そこを経巡り続けている間は、心の本当の平穏は訪れることはない。そう気づいたなら、そこから離れようとするのが仏教的な考え方。実際、仏教とは、「六道」はどれも迷いの世界、苦の世界であると認識することで、六道輪廻から離れていくこと、つまり「解脱」を目的とする教えです。そしてその苦の世界から「解脱」した境地こそが、「涅槃」と呼ばれます。この境地には「涅槃寂静」という言葉もあるように、心に完全な静寂が訪れるという表現もなされ、ここを目指すものが仏教です。
とはいえ、私が生きているこの世界から実際に「解脱」し「涅槃」に至ることは難しいこと。しかし、SNSから離れ、SNSに由来する様々な苦から離れることで、その分だけ心の静寂を得ることはできるかもしれません。つまり「SNS解脱」ができれば、その分だけ心の安定を手にすることができる。そうして得られる心の穏やかな状態は、ひょっとすると「小さな涅槃体験」とも言えるのではないでしょうか。
心静かな時を過ごすかどうかも自分の選択次第
もちろん、仏教の究極の悟りの境地である「涅槃」と、SNSから離れたことで得られる心の平穏は月とスッポンほど違うものです。また、私たちの日常の中にも様々な悩み苦しみがあるわけですから、「涅槃」という境地と程遠いところにいることも間違いありません。
そんな私たちだからこそ、SNSから離れてみることを通して、ちょっとした「涅槃」的な体験をしてみる。その体験から、本当の心の安心を得るための教え、「仏教」を求めていく一つのキッカケとなっていくのではないか……そんなことを今回はぼんやりと考えました。
そう言えば、Twitterの名前がXになったようですね。これをチャンスと捉えて「SNS解脱」してみるのもいいかもしれませんね。
今日の一筆
【今日学んだお坊さんのことば辞典】
六道(ろくどう)
生前の行いの結果として六つの世界を生まれ変わっていくという死生観
田あれば田を憂い宅あれば宅を憂う(中略)田なければまた憂えて田あらんことを欲し、宅なければまた憂えて宅あらんことを欲す
名誉や財産に執着する限りは、有っても無くても、苦しみにつながってしまうということ
日下賢裕(くさか・けんゆう)
1979年生まれ。石川県にある、浄土真宗本願寺派の白鳳凰山恩栄寺(はくほうおうざん おんえいじ)の住職。インターネット寺院「彼岸寺」の代表も務めている。法話は時事ネタを扱うことが多い。