
4月2日から東京富士美術館にて開催中の「旅路の風景─北斎、広重、吉田博、川瀬巴水─」。同館が所蔵する日本の木版画のコレクションから「江戸の風景」と「近代の風景」に分けて、時代を代表する4名の作家の作品を紹介している。葛飾北斎の《冨嶽三十六景》全46図、歌川広重の《東海道五拾三次》全55図など、超有名作品を一気に楽しむことができる。このインタビューでは、同展覧会を企画した学芸員の小金丸敏夫さんに、基本的な知識を教えていただいた。ぜひ、予習に活用していただきたい。
分業体制で製作されていた浮世絵
――浮世絵といえば、葛飾北斎《冨嶽三十六景》の《神奈川沖浪裏》ですよね。世界的にも有名で。
そうですね。海外では「The Great Wave」として世界中で知られている作品ですね。ゴッホも弟に宛てた手紙の中で《神奈川沖浪裏》を大絶賛したという話もあります。世界で評価されたのは絵の斬新さでした。西洋の写実的な描き方にはないものでしたし、自然は人間が支配するという西洋的な考えではなく、自然とともに生きるという自然観の違いもよく表れていて。
――これが木版画というのはにわかに信じられないんですけど、北斎が一人で作ったものですか?
木版画はチームで作成するものなんです。版元(プロデューサー)、絵師(原画となる絵を描く人)、彫師(ほりし/版木を彫る人)、摺師(すりし/和紙に摺る人)がそれぞれ分業で行っていました。北斎は絵師ですね。
――プロデューサーがいる……?
版元は今でいう出版社のことで、プロデューサーとしてどんな浮世絵を作るか企画して絵師に下絵を注文します。《冨嶽三十六景》でいえば、「富士山のシリーズを作ろう」と思った版元が、絵師(北斎)に声をかけたわけですね。そして北斎が下絵を描いて、版元がチェックし、了解が出たら版下絵を制作します。
次に版元が彫師に注文を出して、版下絵を元に山桜の硬い板を使って版木を彫ります。版下絵を裏返して板に貼りつけ、線に合わせて彫っていきます。

彫刻刀。惣合(そうあい)のみ、透(すき)のみ、小刀などさまざまな種類がある
――ん? ということは、原画はなくなっちゃうんですか?
はい。なので、《神奈川沖浪裏》も原画は残っていないんですね。こうして最初に彫られた版木(主版/墨版)には絵のアウトラインが彫られている状態です。次に数枚の和紙へ摺り、絵師が色を1色ずつ――赤なら赤、青なら青といったように――指定していきます。

主版(版木制作:アダチ伝統木版画技術保存財団)
――なぜ1色ずつ指定するんですか?
1色ごとに版木1枚を使うんです。ですから、使用する色の数が多くなるほど版木も多くなります。当時は版木5枚ほどが一般的でしたね。そして再度、彫師が色ごとに版木を作る(色版)。最後に摺師が紙に1枚ずつ摺ります。
――1色ごとに摺っていくわけですよね。まったくズレてないのがスゴイ……。
それが職人の技術なんです。版木と和紙は水分を含むと多少は伸びたり縮んだりするんですけど、それをいかにズラさずに色を乗せるのか。摺師の勘と腕がものをいいますね。

顔料(水性)、馬連、刷毛、ブラシ
――それなのに、前に出るのは北斎とか絵師だけですね。もっと光が当たってもいいのに。
彫師や摺師はあまり名前が残らないですね。ただ絵師にとっては、誰が彫るのか、誰が摺るかはとても重要でした。ヘタな人にあたってしまっては、せっかくいい絵を描いても台無しですから。絵を生かすも殺すも、職人さんたち次第なんです。
実際、北斎は版元に対して「絵師は彫師の腕次第で生かされも殺されもするので、今回の彫師には江川留吉を雇ってほしい」(天保六年二月中旬の手紙)という依頼の手紙も残っているほどです。
――ちなみに、浮世絵ってどのくらいの枚数を摺るんでしょうか。
だいたい200枚を一単位として摺りますね。最初に摺ったものを初摺(しょずり)(※)と言い、売れ行きに応じて摺り増しをしました。
※版元が摺り増しをする際、色を変えたりすることがあった。それはしばしば作家の意図とは離れていくこともあり、それゆえ、作家の意図が反映されている初摺が最も価値があると言われている
――浮世絵を買ったのは庶民ですか?
そうです。浮世絵は庶民の娯楽でしたから、長屋に住んでいるような人たちもこづかいを出して買って楽しんでいました。値段的にも4~500円ぐらい(※)ですね。江戸時代にはそれほどお金を持たない庶民でも、絵を飾って楽しもうという豊かな心があり、そのような庶民の文化的な素養に支えられて浮世絵は育っていったとも言えます。
※1805年の相場で大判1枚20文、かけそば16文。一文は平均20円程度なので、週刊誌を買うような値段で買うことができた

小金丸敏夫さん。東京富士美術館学芸員。1997年より同館勤務。同館では西洋絵画および浮世絵を担当。これまでに「光の賛歌 印象派展」「遥かなるルネサンス展」「ロシア絵画の至宝展」「フランス絵画の精華展」「THIS IS JAPAN IN TOKYO展」などの展覧会を担当。
風景画ブームをつくった《冨嶽三十六景》と《東海道五拾三次》
――浮世絵にはどんな絵がよく描かれていたんですか?
遊女や芸者、女性を描く「美人画」と、歌舞伎の役者を描く「役者絵」です。喜多川歌麿の美人画、東洲斎写楽の役者絵が有名ですね。浮世絵には「今風の絵」「流行の先端にある絵」といった意味が含まれていて、その流行発信地と言えるのが、二大歓楽地(二大悪所)と言われた遊里(吉原)と芝居町(歌舞伎)でした。ここを土壌として美術や文学、演劇などが発展していくわけですが、浮世絵もその一つだったわけです。

歌麿《高名美人六家撰 高島ひさ》(左)と、写楽の《初代尾上松助の松下造酒之進》(右)
――浮世絵の人物ってみんな同じ顔してますよね。
当時の浮世絵って、似ているかどうかは二の次だったんですよ。美人画でも役者絵でもみんな同じような顔をしていますけど、たとえば「歌麿美人」と呼ばれていたように、絵師のスタイルを楽しんでいました。今とはちょっと感覚が違いますよね。何でもかんでも似てればいいというわけではなかった。
逆に似せようとしたのは写楽です。あまり美化せず、いい面も悪い面も表現しちゃう、みたいな。それは当時すごくショッキングなことで、だからあまり売れなかったんですけどね。活動期間は1年ぐらいでしたけど、現在ではその写楽のほうが高く評価されているのはおもしろいですね。ちょっと早すぎたんでしょうね。
――風景画が描かれるようになったのはいつごろですか?
江戸の後期、オランダから西洋の情報が入ってくるようになってからです。本の挿絵や銅画の挿絵などを通して、西洋の絵の技法を取り入れるようになっていきます。遠近法もその一つです。その結果、遠近法への理解が深まり、人間の視覚に近い、違和感のない奥行きの風景を描くことが可能になりました。そして名所絵(日本各地の名所とされる場所を描いた絵)が人気を博すようになるのですが、その大きなきっかけとなったのが、北斎の《冨嶽三十六景》と広重の《東海道五拾三次》です。
――それまでは風景画は売れ筋ではなかった?
浮世絵ではそうでしたね。ただ、肉筆画(※)では、中国の山水画の影響もありましたから、よく描かれていました。
※いわゆる絵画のこと。屏風絵や絵巻、掛物絵などがあり、大名や商人など裕福な人たちが買い求めた
――北斎と広重の風景画、それぞれどんなところに違いがあるんでしょうか。
北斎は一言で言うと、数学的な構図のおもしろさです。旅先で見る富士山や生活の中で見る富士山を、時に海上から、時に屋根の上からとさまざまな斬新な構図で、見るものをアッと言わせました。北斎は定規やコンパスを使って描いたような数学的な美しさがあるんです。それと、西洋から輸入されたプルシアン・ブルーを効果的に使って、青の美しい画面を作りだして大ヒットしました。

北斎《冨嶽三十六景 甲州石班沢》/子ども連れの漁師が、川に突き出した岩場に立ち、激しい流れに網を入れて魚をとる様子が描かれている。背後に大きくそびえる富士山の三角形と、漁師と投網が作り出す三角形が呼応する構図

北斎《冨嶽三十六景 尾州不二見原》/通称「桶屋の富士」。北斎は「ぶんまわし」というコンパスを使って絵を描いたが、本作でもだいたんに画面の真ん中近くに大きな丸を持ってきた。また丸の中に富士山を置くことで、小さいながらも視線が富士山に集まるようになっている
一方の広重は、北斎と違って実際の景色をもとに描きました。時にはほかの資料から拝借することもあったようです。そのため、作品には「ここ、あそこだよね」とわかるようなリアリティーがある、そういう風景を描きました。また、北斎の数学的な描写に対して、誌的、文学的な描写も特徴で、東海道の旅を、53の宿場をテーマに、徒歩での旅の大変さや楽しさ、道中の名所や名物の楽しみなどを、情趣豊かにユーモラスに描き出しました。

広重《東海道五拾三次 蒲原 夜之雪》/広重の代表作。雪が降る夜道を、3人の旅人が傘をかぶって歩いている。3人の旅人はカラー、それ以外はモノクロであることで、雪がしんしんと降る様子が伝わる。色彩で動と静また音と静けさが表現されている

広重《東海道五拾三次 御油 旅人留女》/《東海道五拾三次》で最もユーモラスな作品。御油は現在の愛知県豊川市にあった宿場町。この御油のすぐ先には赤坂宿があったため、宿の競争が激しく、日暮れになるとこのように「留女(とめおんな)」と呼ばれる女性たちによる客の争奪戦があった
――本人たちにライバル意識はあったんですか?
あったと思います。特に広重は、北斎の《冨嶽三十六景》の数年後に《東海道五拾三次》を出していますから。当時は今と違って、広重のほうが人気はあったみたいですね。江戸時代は庶民が自由に物見遊山や遊興目的で旅に出ることは許可されていませんでした。ただ、寺社詣でなど遊びではない旅については容認されていました。そこで伊勢参りやこんぴら参りなど、寺社参拝を名目として旅に出ていたんですね。
だからこそ、五街道のうち江戸から京都の約500キロを結ぶ東海道の旅を描いた広重の作品が好まれていたのかもしれません。
大衆向け雑誌から芸術作品へ。新版画の登場
――新版画(※)はどういう経緯で誕生したんですか?
渡邊庄三郎という版元が、新しい時代にふさわしい木版画を作ろうとしたのが最初です。近代になって浮世絵が廃れていくのを見て、日本文化がなくなっていくことに危機感を覚えたのだと思います。ところが、ただの復刻版を作っても意味がない。もっと時代にふさわしい新しい版画を作ろうとしたんですね。
※明治30年前後から昭和時代に描かれた木版画のこと
――それまでの木版画とはどんな点が違っているんでしょうか。
作家が芸術性を追求できるようになったのは大きいと思います。浮世絵の時代は、幕府からの禁止事項がけっこうあったんです。風紀を乱すような内容がダメとか、贅沢はいけないということで、あまり色を使えなかったり。新版画ではそうした制限がなくなりました。もちろん版元と予算の交渉をすることはあったと思いますけど、それでも自由度は上がったと思います。明治時代以降、海外からの情報もたくさん入ってきて、画家の地位が向上していったことも影響していますね。
――川瀬巴水と吉田博は風景画の分野で活躍した?
吉田博は洋画家として活躍していたのですが、渡邊庄三郎との出会いを経て、渡米から帰国後、自ら木版画の出版に取り組むようになりました。西洋の技法を使いながらも、日本の伝統的な木版画の技術を使って新しい版画を生み出したんです。イギリスのダイアナ妃が執務室に吉田博の作品を飾っていることも知られているように、世界的に評価をされている画家でもあります。また、1年のうち、1~3カ月を山で過ごした登山家でもありました。我々が普段見ることができないような、山の美しい風景を描かせたら一番の画家です。

吉田博《瀬戸内海集 帆船 朝》/《瀬戸内海集》において、版画の特徴を生かし、同じ版木で色を変えることで複数の異なる時間を表現する「別摺」、いわゆる連作風景(朝、午前、午後、霧、夕、夜)に挑戦した
日本画を学んだ川瀬巴水は、やがて版画家に転身して、日本各地の風景を詩情豊かに描きました。「何が好きだと聞かれましたら即座に旅行!と答へます」(『川瀬巴水木版画集』毎日新聞社、1979年)というほどの旅好きで、画家仲間からは旅情詩人と呼ばれていました。昭和の広重とも呼ばれていましたが、広重が各地の名所風景を描いたのに対して、巴水は訪れた土地の何気ない日常の情景を、まるで詩人が歌を詠むように、詩情あふれる風景として描きました。

川瀬巴水《東京二十景 馬込の月》/大田区の馬込の風景を描いた本作は、巴水の代表作として大変人気のある一点。満月を背景に、3本の松がとても美しいシルエットを形作っている
――新版画でも、分業制は変わらなかったんですか?
そうですね。ただ、吉田博の版画にはすべて「自摺」の文字が刻んであります。「自分で摺る」ということですね。これは版元や彫師、摺師に任せるのではなく、吉田自身が勉強して、自分なりの研究をしました。そして彫師や摺師に指示を出すなどして、自分の求める芸術性の高い版画を作りました。
――なんだか口うるさい監修者みたいですね……。
そうですね。吉田博自身も彫刻刀を持って作業したこともありました。たとえば、《渓流》という大きな作品では、波の部分を自分で2週間ほどかけて彫ったんです。あまりにも食いしばって彫ったため、歯がガタガタになってしまったというエピソードも残っています。
展覧会ではココに注目!
――北斎、広重、川瀬巴水、吉田博と、4人の画家を並べた理由は何でしょうか。
いくつか理由はあるんですけど、最も大きいのはこのコロナ禍で旅に出る機会が減ってしまった。ですから、せめて展覧会の中だけでも旅を楽しんでいただきたい。そしてコロナが落ち着いたら旅に出たいと思ってほしいという気持ちもあります。
それと、川瀬巴水と吉田博の作品を収集する機会があったので、そのお披露目をしたかったのもあります。二人とも旅して回りましたし、江戸と近代という旅の風景を比較することで、当時の旅はどういうものかをお見せすることもできます。
また、浮世絵の風景画の代表格である《冨嶽三十六景》と《東海道五拾三次》を一度に見ることができる展覧会はなかなかありません。八王子には大学が多く、若い人たちに画集や図版ではない、本物を目にする機会を提供したかったんです。

川瀬巴水《天草より見たる雲仙》/1922年に発表した《天草より見たる温泉ケ嶽》をもとに、1937年に雲仙の眺望をよりクローズアップして再制作した作品。陸の道をゆく馬と馬子と海の道をゆく帆かけ舟が、画面の中でシンクロしているようでおもしろい構図となっている
――やはり目の前で実物を見ると違いますね。
浮世絵はグラデーションがきれいなんですね。ディティールや色のグラデーションは写真やパソコンの画面では表現できない部分だと思うので、自分の目で見ると感動やインスピレーションは違うと思います。また、印刷物と違って木版画は1枚1枚違うんですよ。
色の置き方、ぼかし方、摺りの力加減一つで、違うものになります。初摺の200枚なら200通りの版画になります。そういう部分が手作業の味というか、いいところですね。
――サイズ感も思っていたものと違いました。
サイズ感って本物を見ないとわからないんですね。浮世絵はだいたいサイズが決まっていて、代表的なのは大判(約38×26cm)です。
――予習はしていったほうがいいですか?
入門書だけでも読んで、何が描かれているのかを知っておくとより楽しめると思います。たとえば、川を渡っている場面っていくつか作品に出てきます。ふつうに考えると、橋をかけたり船で渡ったほうがいいと思うんですけども、当時は軍事的に江戸を守ると意味で川によっては橋をかけてはいけない、船で渡ってはいけなかったんです。そういう所では、川越し人足という職業の人に運賃を払い、担いで運んでもらったんです。
――ただ「昔だから」という理由ではないんですね。
はい。あえて、作っていないんです。江戸時代の事情を知っておくと、だから川を歩いて渡っていたんだ、というのもわかりますよね。
――それぞれの作品の鑑賞ポイントをお聞きしましたが、個人的に好きな作品は何ですか?
吉田博の《渓流》ですね。木版画はある程度のサイズが決まっているとお話ししましたけど、これは特大版でかなり大きいんですね。木版画はサイズが大きくなればなるほど、摺りが大変になります。何色も同じように摺っていくのは至難の業なんですが、それをこのクオリティー、本当にそこに水が流れているんじゃないかというような透明度の作品をつくり上げたことに感動しました。もしかしたら、この展覧会は《渓流》を見てもらいたいという思いから始まったのかもしれないです(笑)。

吉田博《渓流》/博の作品に多く見られる、海や池、湖、渓流といった水をモチーフにした作品の一つ。複雑な水の流れの部分は博自身が1週間かけて彫ったと言われ、あまりにも根をつめたため、歯を痛めてしまったほど。また、当時の木版画では規格外の大きさを誇る特大版として制作された
――最後に、そのほかに見どころなどあれば教えてください。
展覧会の入り口は関所をイメージしています。江戸時代は外に出るときに関所を通りましたから、それをイメージして。提灯も今回の展示用に作っていただきました。展示室の中では、江戸時代と近代へ移るにあたって、レンガと街灯による装飾を施しています。最後の写真コーナーでは、茶屋を設置しました。旅の思い出として、写真を撮っていただければ。また、シアターでは現代の摺師に取材した映像も流しています。こうした演出にも注目していただければ幸いです。
小金丸さんオススメの関連本
予習にも、展覧会で興味を持ったときにもオススメの関連本を挙げていただいた。北斎の《冨嶽三十六景》と広重の《東海道五拾三次》のシリーズ全図をそれぞれくわしく解説している2冊と、吉田博自身が山岳美をつづった画文集の復刻版、川瀬巴水と新版画についてわかりやすく解説した入門書に加え、さらに浮世絵の入門書を1冊。興味を持ったものがあれば、あわせて手に取ってみてほしい。

日野原健司『北斎 冨嶽三十六景』岩波文庫(2019)

町田市立国際版画美術館監修『歌川広重保永堂版 東海道五拾三次(謎解き浮世絵叢書)』二玄社(2010)

吉田博『高山の美を語る』山と溪谷社(2021)

滝沢恭司『もっと知りたい川瀬巴水と新版画』東京美術(2021)

小林忠『教えてコバチュウ先生! 浮世絵超入門』小学館(2020)

「旅路の風景─北斎、広重、吉田博、川瀬巴水─」
会場:東京富士美術館
会期:2022年4月2日(土)~6月5日(日)
休室日:月曜日 ※祝日の場合は開館。翌日火曜日が振替休館
開館時間:10:00~17:00(16:30受付終了)
観覧料:一般 1000円/大高生 600円/中小生 300円/未就学児 無料
問い合わせ先:042-691-4511