創業者の東浩紀さんと現代表の上田洋子さんを迎え、創業10周年を迎えたゲンロンの歩みを2回にわたって紹介してきた。最後に焦点を当てるテーマは、ポストコロナについて。この数カ月、映画、音楽をはじめとした文化産業は大きな打撃を受けた。それはゲンロンも同様で、ゲンロンカフェはいまだ客を入れた営業再開はできていない(無観客放送のみ/5月29日時点)。東さんと上田さんはこのコロナ禍で何を思うのか――ゲンロンの10年を補足するものとしてお届けする。
撮影:吉村 永
コロナ禍で失われた文化的な豊かさの本質
――コロナ禍で自粛やテレワークが進んだことで、たいていのことはオンラインで済むという認識が広まったように思います。リアルの現場を大切にしてきたゲンロンカフェも価値観の変更は迫られると思いますか?
東 むかしから観光とか誤配とか、人が集まることによって起こるハプニングを大切にしていて、その思想はコロナのあとも変わりません。そもそもぼくらは、コロナ禍以前も、誤配や不要不急のハプニングを切り捨てていく社会にいました。
それは資本主義の問題でありテクノロジーの問題でもあると思うけど、今回のコロナでそれが加速したということであって、変わったわけではないと思います。その加速する流れに対して、ぼくはこれからも抵抗し続け、ハプニングが起こる場所をつくり続けます。そして多くの人がその重要性に気づいてくれることを望んでいるけど……。
――5月29日(取材日)のいま、ゲンロンカフェの営業再開も近いと期待している人が多いと思います。
東 まず、問題をウイルスの脅威と社会的な目線の脅威の二つに分けて考える必要があります。日本ではある程度ウイルスの脅威を抑えられている分、どちらかというともう一つの社会的な目線の脅威のほうが大きいですよね。
いくらソーシャルディスタンスを保って、アルコール消毒をしていることをアピールしても、お店を開けていること自体が批判されてしまう。そもそも国や都の方針も、いつどう変わるかわからない。だからゲンロンカフェとしてはしばらく様子見です。
――日常を取り戻す道筋がはっきり見えない状況で、国はどのような休業補償をするべきでしょうか。
東 むずかしい問題ですが、ぼくは形式的にやるしかないと思います。つまり、一定の面積で飲食を出しているなら、飲食店としてすべて補償するとか。ライブハウスや劇場の補償もできるだけ形式的な基準でいくのがいいと思います。
ぼくは「文化は必要なので守ってください」みたいな、業界団体運動には距離があるんです。なぜなら、そういう言い方は、最終的には文化とは何か、アーティストとは誰かという定義の話になるんですよ。具体的には、業界団体に入っているかどうか、組合に入っているかどうかといった話になってしまいます。ゲンロンカフェを「文化」には入れてくれないかもしれない(笑)。
だから、なるべくバラマキ型の、資格の関係ないものが一番公平だと思いますね。特定の業種の人たちは手厚くという話になると、結局、どの組合に属しているかとか、そういうことによって分配金が違うとか、ややこしい問題が発生するだけだと思う。
上田 私は演劇も少し研究しているので劇場の動向には注目しています。5月末にドイツのベルリナー・アンサンブルがソーシャルディスタンスを意識した客席の写真を公開し、それがネット上で拡散されたんですね。700席ある座席から500席を間引いたそうですが、まばらな座席がとてもさびしく、ショックを受けました。その写真に対して「これだと舞台美術を客席まで広げることができる」というクリエイターの反応をSNSで見かけて、さらにショックでした。そもそも客席は観客のためにあるものなのに、観客はどこにいってしまったんだろう、と。
演劇の定義として、それが観客と演者の間で成立するものだという大前提があるんです。それが、観客のための席が30%以下に減った状態では、舞台と客席のバランスが崩れてしまうでしょう。客席の熱気もなくなるし、採算もまったくとれない。
日本の演劇はドイツやフランスなどの公共劇場とは別のシステムで成立しています。日本には手厚い文化政策はないし、俳優や演出家が所属できるような公共劇場もほとんどない。だから、アマチュアでも気軽に劇団をつくって、好き勝手に芝居をやっている小さな劇団が無数にある。日本の小劇場文化には、ヨーロッパにはない独自の豊かさがあるわけです。そこにベルリナー・アンサンブルが出したような再開方針は適用できない。
東 たとえば唐十郎はテントでやっていた。そのテントは補償できるのか。つまり、何が劇場なのか、何が演劇なのかという定義が、本当は非常にむずかしい。その部分が問われないままお金の分配という話になると、禍根を残すと思いますね。
上田 もちろん補償はとても大事です。けれど、客席を減らして再開するにしても、観客のために必要なことは感染予防以外にもあるはずです。演劇人はいまこそどうやって観客を取り戻すかをしっかり考えるべき時だと思います。
――お金という差し迫った問題に直面しているがゆえに、本質的な部分がおざなりになってしまっていると。
東 文化が何を提供していたのか、体験の部分が見失われたまま議論されていると思います。スカスカの劇場で劇を見るのは本当に演劇の体験なのか、ということです。観劇体験の中には、本当は満員の劇場を体感することやロビーで友人に出会うことなども含まれていたはずです。
上田 観劇体験においては、すぐ隣に人が座っていて、その人が寝ているとか、夢中になっているとかを感じることが意外と大事なんです。でも、前後左右の席が空いていて、遠くからしか拍手が聞こえないのでは、はたして演劇なのか。
東 何がコンテンツだったのかという、一番重要なところが見失われてしまった。情報を伝えるのが使命なら、たしかに博物館も美術館も劇場もいらないし、すべてオンラインでできる。でも、そうじゃないからこそ、博物館も美術館も劇場もいままで存在してきたわけでしょう。それなのに、コロナの混乱の中で、「私たちが提供していたのはじつはあくまでも舞台上のコンテンツでした」というウソの自己理解をしはじめてしまっている。そもそもそうなってしまったら、「じゃあ劇場はいらないじゃん。スタジオでやればいいじゃん」となってしまう。
上田 劇場には演者とお客さんの両方がいる、それこそが演劇であるという感覚は、意外と簡単に忘れられるものなのだと思いました。よく、ゲンロンカフェは劇場に似ていると言うんですが、それは集まった観客と登壇者の相乗効果が大事だと思っているからです。
ゲンロンカフェは唐十郎のテント芝居や鈴木忠志の早稲田小劇場に近いんですよ。つまり、劇団が劇場をもっているわけです。でも、そういう劇団はすごく少なくなってしまった。自分がつくった劇場を大切にするという感覚をもっている人があまり可視化されないせいか、劇団と劇場は分化してしまっています。
――たしかに、映画や演劇、音楽業界では苦肉の策としてオンライン配信という方法もとられていますが、コンテンツにおける観客の重要さを忘れかけてしまっている側面もあるのかもしれません。
東 表現の自由や言論の自由の手前に、集会の自由がある。人が集まるからこそ、人はしゃべる。集まらなかったら、表現の自由も言論の自由もない。ただ、ぼくたちはいまインターネットテクノロジーがあるから、何となく人が集まらなくても表現や言論ができるような気がしてしまっている。でもそれは錯覚です。その錯覚のうえで変に美術館や劇場の形を変えてしまうと、表現や言論はやせ細ってしまうと思う。もっと多くの人にその大前提を思い出してほしいですよね。
演劇もスカスカの舞台上でやっていてもしょうがなくて、人が集まっているところでやるからこそ意味がある。トークショーだって、目の前に人がいるからこそ登壇者はしゃべるんです。ニコ生ではたしかに疑似的に観客は再現できる。でもやはり疑似的な再現でしかないのであって、本当はお客さんがいて話がまわっていく。
上田 5月25日付の文化庁の指針では、イベントなどは8月以降も収容率50%目安ということになっている。でも、つねに50%の収容率を維持するような場所だったら、それはもうゲンロンカフェではなく、別物ですよ。
東 ゲンロンカフェは、完全開放か、放送だけのどちらかだと決めています。ソーシャルディスタンスを守ってお客さんを点々と入れてもしかたがない。たださびしい気持ちになるだけ。それならニコ生の視聴者だけに向けてしゃべったほうがいい。
上田 「昔は満員だったのになぁ」と思いながらしゃべるっていう状態になってしまう。
報道機関はもっと移動の自由を訴えるべきだった
東 自分たちが何をつくっていたのかについて、もう一段深く考えてほしいですよね。これは芸術だけじゃなくて、報道にも当てはまることです。報道の自由だって、移動の自由がなければ存在しない。ぼくは今回、テレビや新聞のようなメディアがあっという間にテレワークに切り替えたことに驚愕したんですよ。報道記者やジャーナリストこそ、移動することの重要さについて声を上げなければいけなかったと思います。
実際いまは、記者もネットで情報を集めているだけなので、政府の情報以外は、「誰々がツイッターを更新しました」みたいなニュースばかりがあがっている。記者も読者もみんなSNSしか見なくなってしまった。しかしこれが報道なのかと。みんなが自宅に閉じこめられたいまこそ、報道やメディアは、彼らだけは県をまたいでも、もしかしたら国境をまたいででも現地に行って、現地の空気をつかんで言葉にしなきゃいけなかったはずです。それなのに、当事者がツイッターで発信しているから、それでニュースをつくれるんだという話になってしまった。
ぼくは今回、少なくとも日本については、そういう議論が出てこないことにすごくガッカリしました。最終的にテレワークにしなきゃいけないのかもしれないけど、さすがにもっと抵抗するべきだった。インターネットがなければ、もっと真剣に考えたはずだとも思います。国境が封鎖され県の外にも行けない状況で報道はどうするんだ、と。
ところが、インターネットがあるから何とかなると思ってしまった。でも、繰り返しますけど、それは完全にフィクションで、実際には行かないと報道できないことがあるし、会わなければ引き出せないことがある。ZoomやTwitter、Slackで全部取材ができるというのは大きな勘違いで、クオリティーはすごく下がる。
――コロナ後も常識になりそうですが……。
東 それはメディアの死ですね。それじゃまとめサイトと変わらない。
上田 匿名の病院関係者が「私の病院では医療崩壊が起きています」とSNSで発信することが何度もありましたよね。けれど、誰も裏を取りに行かないから詳細どころか、それが本当かどうかすらわからない。断片的な声だけが聞こえて、全体像は見えないままでした。
東 実際に行ってみたら情報と違うことは多々あるのに、Twitterで流れてきた情報を組み合わせたり、「新宿駅の人出は〇%減」みたいな報道ばっかりだった。
もうみんな忘れていると思うけど、今年のはじめ、イランの司令官がイラクの首都で殺害されましたよね。あれはドローンによる空爆でした。戦争もいまや無人なわけです。現地に誰も行かなくても戦争が起きて、そして現地に誰も行かなくてもTwitterを拾い上げて報道が成立する。これはとんでもない世界だけど、実際にそうなりつつある。
上田 ジャーナリストの安田純平さんがシリアで拘束されたとき、「お前が悪い」という自己責任論が起こりました。コロナはそれを強化し、ジャーナリストが生命の危険を冒すことは批判されるようになった。自分が媒介者になる危険性がまた厄介ですよね。
東 ジャーナリストが動かなくてもいい、現地に行かなくてもいいと思うようになった、というのは本当にすごいことです。ジャーナリズムとは何かが問われていると思います。
――最後に、ゲンロンカフェが完全に開放され、観客を取り戻すのはいつになるでしょうか。
東 第2波が来ないという前提で、世論の雰囲気が許すなら、夏には完全開放できるかもしれません。ただ、さっきも言ったように、これは最終的には科学の話じゃなくて、世論や政治の問題だと思います。たいへんな10周年になりましたが、がんばります。
ゲンロンカフェ
東京都品川区西五反田1-11-9 司ビル6F
TEL:03-5719-6821
https://genron-cafe.jp/