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執筆者の写真奥成洋輔

セガの名機 メガドライブの軌跡⑤ 世界で3000万台売れたメガドライブの結末


「スーパー32X」

©SEGA


10月27日の発売までついに1カ月を切った「メガドライブミニ2」。セガの奥成洋輔さんがメガドライブの歴史をたどる本連載も最終回です。セガサターンやプレイステーションといった次世代ゲーム機が登場する1994年、メガドライブやGENESISはどんな状況だったのか? そしてセガ史上最大の成功を収めたハード、メガドライブ・GENESISの功績とは?



それまでの拡大路線に陰りが見えた日本のゲーム業界


 1993年末に『ドラゴンクエストⅠ・Ⅱ』を筆頭に、『ロックマンX』や『す~ぱ~ぷよぷよ』を発売したスーパーファミコンは、日本国内だけで1100万台を突破した。対するメガドライブは、93年春に発売した廉価機メガドライブ2を加えても300万台を越えたくらい。PCエンジンのCD-ROM2シリーズは180万台程度という状況で、現行機の日本での雌雄は完全に決していた。


セガが当時掲げていたマルチメディア構想(画像提供:セガ)


 ただしメガドライブもPCエンジンCD-ROM2も発売から5年が経ち、ハードウェアとしても円熟期であり、魅力的なタイトルが続々と発売されて、ファンにとっては幸せな時期でもあった。特にPCエンジンは年始の『エメラルドドラゴン』『風の伝説ザナドゥ』からの、5月に登場した『ときめきメモリアル』が口コミでヒット。最後まで話題を振りまいた。


 スーパーファミコン一強となった状況とはいえ、ファミコン登場以来広がっていった市場自体は拡大の一途とは言えなくなってきていた。ファミコン登場から10年、バブル崩壊をものともせずに成長を続けてきた日本のTVゲーム業界であったが、この時期ついに立ち止まる。


 16bit市場に移ってからの開発費の高騰と、それにともなうゲームソフトの高価格化や、その結果生じた売れるソフトと売れないソフトの落差、中古ゲーム市場の躍進などもあって、1994年3月期にもなると、すべてのメーカーが減収減益となり、大きな危機を迎えていた。その中には、人気ゲームメーカーだった東亜プランの任意整理や、アイレムによる開発部門の大幅な縮小など、特にアーケード中心で活躍してきたメーカーの中で、次世代機の登場を待たずに撤退するところが現れ始めた。


 一方で北米市場はというと、こちらは94年も拡大が続き、GENESIS(北米版メガドライブ)とSNES(北米版スーパーファミコン)の一騎打ちも3年目となって続いていた。セガは93年を振り返り、「北米販売ソフトベスト10のうち上位3本を含む7本がセガ向け」「昨年の年末商戦も6:4でセガの勝利」と伝えたが、任天堂はまったく逆の数字で任天堂が勝利したと伝えていた。どちらも1400万台くらい普及して接戦を続けていたようだ。


 ただ、この数字は1台でもシェアを伸ばしたい両陣営による、ハードの値下げ合戦の結果によるものでもあった。ハードでの利益はいっそう薄くなり、さらに円高と欧州での景気の大幅な後退を理由に、セガは12年ぶりの減益となっていた。同様に任天堂も値下げとシェアの低下により減収減益へと陥った。



世界で売れたからこその弊害!?


 日本のソフトメーカーは北米市場への関心をさらに強め、北米で互角の戦いをくり広げるGENESIS向けにも力を入れるようになった。


 あのハドソンも、北米でのPCエンジンの事実上の撤退を見届け、ついにGENESIS市場に参入。PCエンジン用だった『ボンバーマン’94』や『コブラⅡ 伝説の男』『ウインズ オブ サンダー』などをリリースした。時を同じくしてコナミも『バンパイアキラー』『魂斗羅ザ・ハードコア』など人気シリーズのオリジナル新作を投入。


 さらにはPCエンジン用『スナッチャー』をGENESIS SEGA-CDへと移植するが、日本でのメガドライブの市場の縮小もあってか、これらPCエンジンの移植ゲームが、日本のメガドライブで発売されることは残念ながらなかった。


 もちろん当事者であるセガ自身も、この北米偏重の市場の影響を受けないわけがなかった。ソフト開発の多くは日本で行われていたものの、主戦場となる北米マーケットの意見をいっそう聞くこととなり、北米で人気のアクションゲームを多数開発した。


 これだけ日本との販売台数の差ができてしまうと、メインマーケットの北米市場へ合うようなローカライズが必要となり、コミカルなアクションであっても、プレイヤーキャラクターの表情をやさしいかわいらしい顔から、戦いに赴く険しい表情へと変更するように、などと多くの部分で北米の意見を多分に反映させつつの開発を行うこととなり、これまでにない苦労をすることになった。


 この時期に発売された『ダイナマイトヘッディー』や『リスター・ザ・シューティングスター』などはその典型で、日本版と北米版では敵味方の登場キャラクターの表情が大きく異なっているので、機会があれば見比べていただきたい。


『ダイナマイトヘッディー』

©SEGA


『リスター・ザ・シューティングスター』

©SEGA


 また『ベア・ナックルⅢ』に至ってはゲームバランスも大きく変化し、難易度がハネ上がっていた。これは北米独自のレンタルや返品を可能とするシステムのため、簡単にゲームをクリアさせないようにする必要があったということだが、ゲームバランスが崩壊し、かえって評価を下げることになった。


『ベア・ナックルⅢ』

©SEGA


 こうして北米向けに開発を進めても、ゲームタイトル数自体が飽和状態となり、たとえば『パルスマン』は、欧米市場向けにネイティブの英語ボイスを実装するなど対応を進めていたものの海外発売が結局なくなるなど、残念な結果になることもあった。もちろん『幽☆遊☆白書 ~魔強統一戦~』など日本市場向けのタイトルも引き続き開発され続けたが、市場は縮小するばかりで日を追うごとに日本でソフトは売れなくなっていった。


 そして1994年はあの『ソニック・ザ・ヘッジホッグ3』が、約1年ぶりの2月(日本では5月)に発売となったが、外的要因により開発がスムーズに進まなかったため、期日までに開発が間に合わず、アクションゲームでありながらゲームのストーリーが中盤で終わるという前後編として発売された。


『ソニック・ザ・ヘッジホッグ3』

©SEGA


 後編の『ソニック&ナックルズ』は半年後の10月に、カートリッジ2本を合体させる「ロックオンシステム」という、アクロバティックなオリジナルカートリッジで発売された。単体でも遊ぶことができるだけでなく、2本のソフトを繋ぐことでストーリーを通してプレイできるという遊びを取り入れたが、2作を合わせても1992年末に発売した第2作の販売本数を越えることはできなかった。


『ソニック&ナックルズ』

©SEGA



次世代機として先陣を切った松下電器の「3DO」


 そして1994年といえば次世代機である。欧米での対SNESとの徹底抗戦という戦況下でも時代は容赦なく進み、いよいよ新たな高性能ゲーム機が発売される機運となる。1993年末から94年にかけて、次世代のゲーム情報が次々と流れていった。


 特に1993年末に日本で新聞報道された「セガの次世代ゲーム機」情報は、現世代機を発売し続ける北米のセガにとっては歓迎されない情報だった。どこのゲーム機でも体験できない、新しい映像を提供していくゲーム機にとって、代替わりが来年だろうと再来年だろうと、最新ゲーム機でなくなった瞬間、輝きは失われるのだ。


 北米セガは日本のセガに反発するが、次世代機の流れはセガが決めるものではなく、業界全体が決めるものだ。現実問題として、次世代ゲーム機レースに参加する競走馬はすでにパドックに揃いつつあった。


 93年末以降に発表、発売された次世代ゲーム機は、16bit時代を大きく上回るものだった。まず新たに、大手家電メーカーの松下電器が「3DO」で、ソニーは「PS-X(正式名:プレイステーション)」で次世代ゲーム機に参戦するというニュースが続いていた。


 そのほかアタリは久々の新ハード「ジャガー」、NECはPCエンジンの後継機情報「FX」(後のPC-FX)も飛び出し、任天堂はスーパーファミコンやゲームボーイとは異なるVRマシン(後のバーチャルボーイ)を発売すると発表。さらにSNKが「ネオジオCD」で本格的に家庭用市場に参戦するなど、1994年以降は日本のメディアが語るTVゲーム情報は完全に「次世代機」一色となっていき、ブームを過熱させた。


 次世代機として、最初に動いたのは「3DO」だった。北米での発売は1993年の10月、日本が1994年3月と、当時としてはめずらしい北米が先に発売されるケースだったが、こちらのスタートは不発に終わる。ハードウェアの価格が700ドルと高価で、また魅力的なタイトルが揃えられなかったことが原因と言われる。3月までの実売は3万台に留まった。


 あわてた松下電器は、日本での発売価格を当初発表の7万9800円から5万4800円と、発売前に3割以上下げるという異例の対応を行った。次世代機ブームに乗って、日本では20万台ほどを販売したが、北米はスタートに失敗したため、同時期の値下げ(500ドル)の効果も薄く10万台程度に収まった。また、同時期に発売されたアタリのジャガーも北米で10万台程度に終わったということだ。


 3DOの苦戦は、次世代機としての売りとなる部分を読み違えたところであると思われる。1993年くらいまでの次世代機に期待されるハードウェアというのは、PCエンジンCD-ROM2からメガCDへと進化したCD-ROM媒体で展開していくゲームであり、CD-ROMでできることというのは、CD音源による豪華な音楽、大容量による豪華なグラフィック、そしてメガCDで実現した映像再生技術と思われていた。


 次世代機レースで先行した3DOの売りはまさに優れた映像技術であり、テレビと同等の画質で映像が見られることであった。こうした流れを当時「マルチメディア」と呼び、VHSビデオデッキやホビーパソコンに代わるメディアになるのだという未来を見越してアピールをしたのだ。PCエンジンでのビジュアルゲームの成功体験のあるNECも同様で、PC-FXには同様の優れた動画再生機能を持ったチップを搭載した。


 ところが94年になると、最新ゲームのトレンドが映像から3Dポリゴンへと完全に移行したのだ。当時、最先端のTVゲームが体験できる場であったゲームセンターでは、3Dポリゴンタイトルのヒットが相次ぎ、次世代ゲーム機への期待に一役買っていたためだ。



時代は3Dポリゴンゲームへ


 1992年に登場したセガの3D専用基板・MODEL 1タイトル『バーチャレーシング』のヒットを受け、1993年には美しいテクスチャーマッピングでさらに画面を鮮やかに見せたナムコのレースゲーム『リッジレーサー』が10月に登場。『バーチャレーシング』を越えるヒットとなる。


 そしてその直後の12月にはセガから『バーチャファイター』(第1作)が登場。大流行中だった対戦格闘ゲームかつ、『ストリートファイター』以来ほとんど変化のなかったゲームシステムの変更も評価され、空前のヒットを飛ばす。1994年はこの2作に加え、4月に発売したセガのMODEL2基板第1作『デイトナUSA』では『リッジレーサー』と同様のテクスチャーマッピングが施され、こちらも大ヒット。格闘ゲーム一色だったゲームセンターは、3Dポリゴンゲームによってさらに盛り上がった。


1994年のAOUショーで展示された『デイトナUSA』


 3DOやPC-FX、さらに94年末に発表されたAppleとバンダイの共同開発マシン「ピピンアットマーク」は、ここを読み違えてしまい、出馬はしたものの、レースには参加できずに終わった。


 逆に唯一先見の明があったのがPS-Xのソニーだった。ソニーには歴史が味方をした。当時の3Dポリゴンはまだ最先端技術であったため、技術力に秀でるセガとナムコが一歩も二歩も他社に先んじており、他の追随を許さなかったのだ。


 他社はアーケード向けであっても、そういうゲームを作るノウハウもハードウェアの開発技術も持っていないという状況だった。そこにソニーは「PS-Xがあればどこのメーカーでも3Dゲームを作ることができる」とうたったのだ。ゲームセンターのセガ・ナムコの独占に警戒したメーカーは大いに興味を示した。さらに『リッジレーサー』のような大型筐体ではなく、アップライトなどの通常のアーケードゲームへ3Dゲームを展開したいナムコですら強い興味を示した。


 一方セガはアーケードで3Dの先駆者であったが、家庭用向けにはまだ2Dの時代が続くと見越していたため、急遽3Dに対応させるべく、搭載する予定だった日立のRISCチップ・SH2を2個積むことにして、開発中に大幅なスペックアップを行った。


 さらにセガは今の好調な市場を維持するため、北米でのGENESISも維持しなくてはならない。北米セガの非常に強い要望により、94年末に開始される次世代ゲーム機レースに、急遽もう一つの機種を開発し、参戦することとなった。それが「スーパー32X」だ。


 スーパー32Xは、メガCDとは別のメガドライブのパワーアップユニットで、セガサターンと同じSH2のRISCチップを2つ積むことで、メガドライブでも3Dゲームを遊ぶことができるようになる周辺機器だ。


 3月、セガはこのスーパー32Xを発表し、全世界で250万台を販売、ライセンサーのものを含む60タイトルのゲームを用意すると発表した。5月には本体価格を1万4800円とした。同時に正式発表した次世代機の本命であるセガサターンは、4万9800円以下、初年度200万台を目指すとした。


1994年の東京おもちゃショー(画像提供:セガ)


1994年のJAMMAショー(画像提供:セガ)


メガドライブ・GENESISの成功が後世に残したもの


 結果として、2種類の次世代機を発売するという判断は大きな失敗となった。全世界で年末にほぼ同時発売されたスーパー32Xは、予想を下回る実績となり、100万台も売ることができなかった。


 それはなぜか。セガがソニックでSNESに対抗し勝利した1991年と、この1994年の3年間で最も変わったことは、世界での情報伝達速度の速さだ。欧米のゲームファンは、インターネットやさまざまな方法を通じて、日本で加熱していた次世代ゲーム機戦争の情報がしっかりと伝わっていたのだ。鮮やかなグラフィックで魅せる、PS-X改めプレイステーションや、セガサターンのゲームの、これまでのゲーム機にはない魅力的な性能は、海を越えて伝わっていたのだ。


 次世代ゲーム機の数々のソフトと比較して、スーパー32Xのローポリゴン、ノンテクスチャーのグラフィックはいかにも古く感じた。結果としていくら値段が安かろうが、スーパー32Xを買うくらいなら、翌年以降に発売されるであろう、セガサターンやプレイステーションのために貯金すれば良いと考えたのではないだろうか。1994年の北米年末商戦は、『スーパードンキーコング』を推す任天堂の勝利に終わった。本作は全世界で744万本が売れたそうだ。北米セガ陣営は、スーパー32Xの失敗が明らかになると、失敗を認めセガサターンを北米でいつ発売できるのかということに興味を示した。


 この1994年の年末商戦に、セガがセガサターンとGENESISだけに集中できず、開発ライン(そして同じチップを使っているが故のパーツ)の多くをスーパー32Xにも割いた結果、日本の1年目にプレイステーションに大きな差をつけることができず、また北米で(まだ後継機の話題のなかった)SNESともうまく勝負できなかった。これは翌年以降大きく響いた。


 GENESISはその後、ソフト開発は北米のみで行い、1995年、1996年にも『コミックスゾーン』や『ベクターマン』など多くの名作をリリースして、市場の縮小に対応を続けたが、95年に北米でも発売したセガサターンとの分散や、対プレイステーションでの苦戦により、GENESISの市場はSNESに比べると急速にしぼんでいった。


『コミックスゾーン』

©SEGA


『ベクターマン』

©SEGA

 

 また次世代機への移行が行われた日本ではソフトをリリースしてもまったく売れなくなり、事実上1995年までに開発を終え、日本の開発ラインはすべてセガサターンに回された。末期に開発されたソフトの国内での販売本数は工場の最低ロットである2000本だった。セガで最後から2本目にリリースされた『ジ・ウーズ』に至っては、北米版とセットで製造することで本数をさらに減らして発売を実現させたが、その数はたったの800本である。


 1988年末に発売され、90年代中期までソフトが発売され続けたメガドライブの生涯実績は、日本が約350万台、北米が約1690万台、欧州が約930万台、その他で約100万台と、全世界で3000万台以上が販売されたということだ(セガのみ。ライセンスされた互換機を除く)。これはその後奮戦するも1000万台まで到達できなかった後継機・セガサターンやドリームキャストが、目指しても越えられなかった大きな成功であった。


 また、欧米ではSNESを時に上回り、最終的にもほぼ互角の戦いをしたメガドライブ・GENESISの成功は、セガという企業を現在まで続いている世界的なブランドにした。近年公開された『ソニック・ザ・ムービー』2作の全世界での大ヒットも、もちろんこのメガドライブ&GENESISの戦いがあってこそのものだ。メガドライブの時代は今も多くのファンによって語られ続け、その成功の象徴であるソニックの活躍は、今後もさまざまな世界で続くことだろう。


(終)

 

奥成洋輔(おくなり・ようすけ)

1971年生まれ。1994年に株式会社セガ・エンタープライゼス(現・セガ)入社。2000年DC『エターナルアルカディア』でアシスタントプロデューサーを担当、2004年にPS2『サクラ大戦V EPISODE 0 ~荒野のサムライ娘~』を初プロデュース。2005年以降旧作の復刻を数多く手掛ける。最新作は『メガドライブミニ2』。その他主な作品にニンテンドー3DS「セガ3D復刻プロジェクト」シリーズ、『メガドライブミニ』(初代)『ゲームギアミクロ』など。

 
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