新聞記者――取材を通して世の中で起こっていることを人々に伝える職業。中でも地方紙の新聞記者となると、新聞がその地域で暮らす人々にとっては不可欠の情報メディアである以上、生活者の一人としてその地に根を下ろし、地元住民に寄り添いながら紙面をつくっていく。今回、ふじいさんが取り上げる新聞記者は尾道をどう見ているのか?
尾道で働く新聞記者に気づかされたこと
兄の古本屋を起点にいろんな人と出会う。新聞記者の石下さんと出会ったのも兄の店だ。私の部屋の窓から、兄の店の前で話している姿を見かけたのがファーストコンタクトだった。兄が懇意にしていた新聞記者の人は本社のある広島市に転勤になった。どうやら彼女はその後任らしい。随分ちんまりとした、かわいらしい人だなという印象だった。
……が、会えば会うほど、私は彼女から目が離せなくなるのである。
まず挙動がおもしろい。兄の店で再会したときはソファーに座ったかと思うと、近くにあるものを手当たり次第触り始めた。しかも「お久しぶりですね〜。そういえば〜」と話しながらである。お前さんの意識は今どこにあるのだい?とつっこみそうになる。
またあるときは、たまたま一緒に帰宅している途中で「私の家、いい部屋なんですよ〜。見ていきませんか?」と言われたのでついて行ったことがあった。「見ていきませんか?」と言うぐらいなのだから部屋に上がらせてくれるものだと思っていると、彼女が住むアパートの前に着くと「中はまた今度……でも、すごくいい部屋なんですよ!」と言われたのである。無理くり突撃するのも悪いし、そもそもそんなに部屋を見たかったわけでもないので、おとなしくすごすごと帰った。
本連載の取材をしたときは、私の質問がひと通り終わると「じゃあ、私の質問いいですか?」とノートを取り出し、あらかじめ用意してきた質問を投げかけ始めた。記者の血が騒いでいると言っては失礼かもしれないが、どう考えても彼女は私の質問に答えるよりも、私に質問しているときのほうがテンションが高い。そして質問が終わるとまたスッとした冷静な顔に戻るので、「石下さんっていったい……」となるのである。
先ほど彼女のことを「挙動がおもしろい」なんて少し遠回しな言い方をしたが、ストレートに言うと「変」である。少し仲良くなってから彼女にも伝えたことがあるが、彼女はものすごい勢いで「私は変じゃないですよ! それなら職場の先輩のほうが変です」と否定する。そこでそうやって別の人を「変」と言っちゃうところも変わってるなと思うのだが。
何かとびっくりすることの多い彼女だが、仕事では何時間も寒空の下取材したり、「私が記事書くかわかんないですけど」と言いつつ、取材先のイベントの期間中、終わるまでしっかり見届けたりと根性のある人だ。自分より変だと言った先輩のことも実はすごく尊敬していて、一緒に飲みに行ったあとはその先輩が話していたことをノートにまとめ、その感想をイラスト付きで書くなどかわいらしい一面もある。
石下奈海、26歳。今では意気揚々と働いているように見える彼女はそもそも新聞記者になりたくてなったわけではないのだと言う。
広島県広島市出身の彼女は中高6年間野球部だった。それも高校時代はマネージャーではなく、男子に混じってプレーヤーとして所属した。しかし身体と心の成長が著しい、思春期。どうしたって抗えない性別の差にぶち当たる。つねにベンチ入り、プレーヤーとは名ばかりで記録係ばかり担当した。周りの腫れ物に触るような気づかいもひしひしと感じていた彼女は当時をふり返って「人生1回終わった」と言う。
愛媛の大学に進学すると、大学から始める人が多いだろうと考えたラクロス部に入部する。つまり、中高から合わせると10年間運動部なのだ。辛かった高校時代の野球部も大学でのラクロス部での経験もすべて今なら「やってよかった」と思うそうだが、10年間運動部に所属した彼女の答えは「自分、運動向いてないかもって思ったんですよね。疲れるし、しんどいし」だった。
そういった理由で仕事は動くより文化的な仕事がいいだろうと考え、出版社や新聞社、ハウスメーカーなどで就職活動を行い、今の新聞社に入社するに至った。1人でじーっとしてていい仕事がしたかったので、必ずしも新聞記者になりたかったわけではない。しかし、この話を聞きながら私は「新聞記者こそ、文化的と言うより体育会系なのでは?」と言うと彼女はこともなげに「そうだったんですよね〜」と言うのでこっちもあっけに取られてしまう。
新卒で入社したときは広島市内にある本社勤務だった。入って3カ月で市内の事件や事故を扱う警察担当となる。習うより慣れろの現場は、取材のやり方、文章の書き方など一切教えてくれることはなかった。内外から理不尽な言動をとられることもあった。
「辞めたい」と思った。でも辞めることのほうが大変だと思った。
転機となったのは尾道支局への異動だ。同じ県内だが、それまで来たことも聞いたこともない街だった。親戚や友達もいないので、純粋にどんな街なのだろうと想像を巡らした。
多島美が望める瀬戸内海、好きだと言う橋がたくさんある環境と市内に比べるとややのんびりした人々と気候は彼女に合っていた。市内では毎日3〜4件あった事件事故が尾道だと0件の日もある。
「尾道に来たから、仕事を続けている」と言う彼女に「尾道という街の魅力って何?」と聞いてみた。さぞかし語ってくれるだろうなんて考えていたが、思ってもみない回答が返ってきた。
「どこまでを尾道と捉えるかはその人によりますよね。きっと多くの人がイメージする尾道って尾道駅前や商店街、山手などの辺りだと思います。けど、東尾道だって、栗原のほうだって、因島や向島だって尾道です。よく取り上げられる移住してきた人が語る尾道というのはとても表面的だと思うのです」
彼女の言う通りである。平成の大合併により尾道市は大きく広がった。因島出身のポルノグラフィティが合併前に因島の公民館でライブをしていたのは今でも記憶に残っている。
そして彼女はさらに続ける。
「それに街に入っている人はその街について語れると思うんですけど、私は街に入っているわけじゃないから、語るに足らないと思います」
「街に入っている人」という表現がどこまでも私の中でひっかかった。それはもしかしたら高校時代プレーヤーとして活躍することがかなわなかった彼女独自の見方なのかもしれないし、新聞記者として一歩引いた俯瞰した見方が身についてるのかもしれないし、個人事業主が多い尾道という街がもたらす独特の感覚なのかもしれない。
彼女は自分自身のことを尾道から「いつかいなくなる人」と言った。仕事があるから尾道という街に来ることができたが、また異動があれば離れるだろうし、もしも仕事を辞めたとしてもいつか離れるだろう。
それでも、あえて私は石下さんの言葉に反駁したい。私はその街で働き、その街で消費し、その街に暮らしているなら、それはもう「街に入っている人」なのではないかと思うのだ。何か個人でお店を開けていること、空き家を再生している人、そういった人たちと懇意で明らかな形で活躍していることだけが、その「街に入っている」というわけではないのではないか。
何よりそういった住み分けがこの街にできてしまうことに、なんだか私はとても苦しくて悲しい気持ちになる。誰かを「街に入っている」とすることは、またほかの誰かを「街に入っていない」とすることと同じだ。尾道だからというわけではなく、私が住んでいる街として、この街には誰にとっても柔軟に開けていてほしいと勝手ながらに願っている。
しかし、私が今まで連載の中で扱ってきた尾道が、尾道駅から半径2キロメートルの範囲を超えていないのは事実だ。本連載が始まってから、「おもしろかった」「読みやすい」などお褒めの言葉がもらうことが多いが、あるとき友人に言われた「悪い意味ではないのだけど、藤井さん自身の人脈の範疇で描いているなと思う」と言う言葉が深く刺さった。兄にも「お前はずいぶん近くのことを描くなぁ」と言われた。
それ以降、本連載について思い悩む日々が続いた。じゃあ誰を描こう、何を描こう、そもそも尾道の日常って何だ。それでも締め切りは近づく。1人で描ける連載でもないので、アポ取りはしないといけない。気持ちだけが焦っていた。
石下さんは私に尾道の広さを改めて教えてくれた。そして私が描く尾道はまだその一片も紹介できていないということも。
それでも私は私の半径2キロ圏内のこの街を描いていこうと決めた。石下さんに言われたから「じゃあ向島の話を、因島の話を描こう」とよく知りもしない場所やお店、人のことを描くのは必ずどこかで無理が出るし、何より相手に失礼だ。
そして、何も私がすべてを描く必要もないのだということにも気づかせてくれた。一つの街がいろいろな立場のいろいろな目線で、いろいろな媒体で語られることが大切なのだ。私は私の目に止まる、私の視点での尾道の日常をこれからも描いていく。
別の切り口での尾道を知りたい方はぜひ彼女の記事を読んでほしい。そして、尾道に住む人たちには何かおもしろいことがあったら彼女に教えてあげてほしい。街の課題でも悩みでも、彼女は何でも募集中だそうである。
走れ、進め、石下。私は尾道に住む、「尾道という街に入っている」、そんなあなたを描きたいと心から思ったのです。
ふじいむつこ
1995年生まれ。広島県出身。物心ついた頃からぶたの絵を描く。2020年に都落ちして尾道に移住。現在はカフェでアルバイトしながら、兄の古本屋・弐拾dBを舞台に4コマ漫画を描いている。
Twitter:@mtk_buta
Instagram:@piggy_mtk
【連載一覧はこちら】