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執筆者の写真ふじいむつこ

尾道日々是好日(8) 食べて楽しいことが一番大事、中華食堂・一楽の話



どこの街にも一軒は見つかるであろう、中華食堂。街に根差したお店はその歴史も古いことが多く、地元の人たちに愛されている。今回ふじいさんが取り上げる「中華食堂・一楽」もそんな街の中華食堂の一つだが、そのお店の成り立ちにはさまざまなドラマがあった。

※一部修正しました(6/29)


街とともに歩んできた創業65年の中華食堂


 お腹が空いた。バイト終わりの帰り道、何を食べようかと思案する時間は、至福のひとときだ。ありがたいことに尾道にはおいしいお店が選べるほどたくさんある。誰かを誘ってワイワイしたいときはあのお店、お刺身が食べたいときはこのお店、一人で飲みたいときはあそこ……そして、心身ともに疲れているときに行くお店がある。


 本連載第5回で紹介した洋菓子店、佳扇さんの角を曲がり、南に直進すると、金属サイディングの建物が見えてくる。店の前には大きく店名が書かれた垂れ幕がかかっている。


「中華食堂・一楽(いちらく)」



「いらっしゃいませー! アルコール消毒お願いしますねー!」


 扉を押せば元気な声が迎えてくれる。細長い店内はカウンター席のみで10人ほど入ると満席だ。メニューに目をやる。中華そば、ワンタン麺、五目そば、名物のちまきに焼きギョーザ……さあ今日はどれにしようか。


 麺類は一部メニューを除いて並、小、大とサイズを選べるのが個人的にはうれしい。私のおすすめは夏季限定の冷やしうめだいこん。あったかいうめだいこんもあるが、それとは似て非なるものだ。氷水でよく冷やした麺にやわらかい蒸し鶏とおろしだいこん、梅がのっていて、特性のだしと梅の酸味がベストマッチした一品である。食欲がないときでもこれはスルスルと食べられてしまう。お冷がビールジョッキで出てくるのも一楽ではおなじみの光景だ。



 店内を見渡すと、家族連れにカップル、観光客らしき人に地元の人……と客層は老若男女幅広い。


「新開はもともと赤線と呼ばれる地域だったから、今のように女性や子どもが近づけるような場所ではなかったのよ」


 そう語るのは現在の店主淑恵(よしえ)さんだ。先代の次女である淑恵さんは、新開生まれの新開育ち。子どもの頃に見た新開は、肩がぶつかればケンカは日常茶飯時、昼間道に描いたケンケンパの文字は翌朝には消えかかっているほど、人が多く出入りする華やかな夜の街だったという。18歳からお店を手伝い、両親の跡を継いで今日まで明かりを灯し続けている。




一楽を始めた、父・進財さんと母・亀子さん


 父の進財さんは台湾出身だ。18歳で赤紙を受け取り出兵後、シンガポールから引き上げ、隣町の糸崎港から尾道に移り住んだ。駅前ビルに下宿し、調理の経験はなかったが、自分で本を読んで勉強したり、友人たちにワンタンの作り方などを教わったりしながら、ほぼ独学で船員向けの飲み屋を桟橋に開く。


「今みたいにきっちり船が着く時間が決まっていたわけではないから、いつ船員さんが来るかわからなかったの。だから24時間体制で船員さんが来るのを待って、来たら開けていたのよ。その話を思い出すたびに涙が出てきてね」と淑恵さんは少し声を潤ませる。


 ガス火もない、資材も不足していた時代、十分な設備はない中でも訪れてくれる人のお腹を満たすため、10年近くお店を続けた。そして当時、駅前にあった国際マーケットや飲食店で働く亀子さんと出会い、結婚するに至る。


 母の亀子さんは尾道の吉和出身で両親は漁師だった。5歳の頃から自分のご飯は自分で用意し、学校にはほとんど通わず、弟や近所の子どもの面倒を見ることを好んだという。亀子さんが13歳のとき、両親は船の中で一酸化炭素中毒となり亡くなってしまう。12人兄弟の下から2番目で、ほかの兄弟はみな結婚するなどそれぞれの生活があったため、あまり頼ることはできない。10歳上の姉の世話になりつつも、弟だけ施設に預け、生計を立てるために働きに出た。


 そして、17~18歳の頃に14歳上の進財さんと出会う。「力強くてたくましい姿に魅かれたのかしらね」と淑恵さんは言う。




新開にて大衆食堂一楽がスタート!


 お金が貯まると2人で新開に移り、現在の店舗よりも東の場所に一楽をオープンする。当時は中華食堂ではなく大衆食堂で、うどんや親子丼、オムライスなどを提供していた。今でこそ昼は11時から14時まで、夜は17時半から21時までの営業だが、当時は飲みの締めや夜の仕事終わりの人たちのためのお店だった。


 10年以上経った1971年、尾道駅よりさらに西の新浜にボーリング場のテナントとして2店舗を構えた。カウンター席23席。このときに中華食堂に転身した。


 しかし1979年6月、新開地区が大火に見舞われる。全焼が40軒にも及ぶほどの大規模な火災だった。整備のため、立ち退きを余儀なくされた。



 不運は続く。同年9月に進財さんが亡くなる。亀子さんと残された娘3人を見かねて知り合いの会計士は「女の子ばかりの家系だし、お店は閉じたら?」と提案した。しかし、亀子さんはきっぱり言った。


「一楽は閉じません」


 幼い頃に両親を亡くし、自分の身は自分で守らなければいけなかった亀子さんは日々のお金は自分で稼がなくてはいけないということを誰よりも知っていた。お店を閉めるという選択肢はなかった。


「母は強いよ」


 そう語る淑恵さんも父が亡くなってから大学受験を取りやめ、お店を手伝うようになる。新浜の店舗は営業を続けていたため、自動車免許をすぐさま取得し、母の送り迎えをした。



一楽名物、ちまきが誕生!


 大火から2年後、1981年の春には今の場所に店舗を移動し、営業を再開した。「前に進まないとなぁ」と思っていたそんな折、お客さんから「持ち帰れるようなものないん?」と尋ねられた。それがきっかけとなり、一楽の看板商品と言っても過言ではない、ちまきが生まれたのである。本来はお皿の上で提供する油飯を、持ち帰られるように竹の葉で包んだ。


 店舗の隣にある持ち帰りカウンターでテイクアウトすることもできるのだが、売り切れになってしまうことも多々あり、予約するお客さんも絶えない。私にはこのちまきに関する忘れられないエピソードがある。


 尾道に来た友人にこのちまきをおみやげに持ち帰らせようとしたところ、その日は定休日で、翌日は営業時間前に帰らなくてはいけなかった。ダメ元で電話でその旨を相談すると「9時ならお店にいるんでお渡しできますよ」と言ってくれたのである。結果、2つのちまきを友人に持たせることができた。そんな柔軟さややさしさに感動した話を淑恵さんにすると「常連さんだからとか知っている人だから、特別にそういうことをしたってわけではないのよ。ただそのときにできることを考えてしただけなの」とさっぱりとこともなげに言う。一楽がみんなから愛され続ける理由がわかったような気がした。




時代とともに変わる街と人々に対して、淑恵さんの胸中は……


 昼営業を始めようとしたときに、亀子さんは「昼間にお客さんなんか誰もこん」と反対した。そうは言っても、街も変わり、自分たちも年をとっていく中で、お店を続けていくためには営業スタイルを見直す必要があった。女性や子どもが近づくことはできない夜の街と言われた新開も、今では観光客や主婦たちが気兼ねなく、昼間からちまきを買いに来るようになった。街も人の意識も時代とともに変わっていく。


 まさに尾道の繁華街の栄枯必衰の中で、街と人々とともに歩んできた一楽。2000年に亀子さんが亡くなったときはてんてこまいで何をしていたか覚えていないという。しかし、亀子さんが最期に「3人で仲良く一楽を続けてね」と言い残した言葉どおり、2017年には妹のすみさんが関東から引っ越してきてお店の手伝いをするようになった。姉は一楽のWEB関係を担当してくれており、不思議なことに3姉妹がそれぞれの形でお店に携わっている。


 そのとき、そのときにできることを考え、最善を尽くして来たからこそ、65年続いているのではないかと生意気ながら思うが、「65年も続くなんてすごいですねと言われるけどね、ただ地道に開け続けてきただけなんよ。あまり深く考えてこなかったから、続いたんかもね」と淑恵さんは涼しい顔だ。


 そんな淑恵さんに今の尾道に移住者が増えたり、新しい店舗ができたりすることについて尋ねると、「純粋におもしろいよねぇ、本当に楽しい」と言う。


 夜の街が廃れていくのは当たり前で、それでも生き残っていくためには店の形態を変えていく必要があるし、街としての世代交代も必要である。街のイメージを変える一翼を担っているのが新店舗だ。


 だからこそ「継続してほしい」と淑恵さんは願う。「この街のノリに合ってくれたら、ずっとなじんでくれたらうれしい」。しかし淑恵さんは続けてこうも言う。「でも新開で開けてくれるお店は息が長いお店が多い。いろんな縛りがある中でがんばっていると思う」


 この65年間で街は大きく変わった。23年前に一楽が出前を辞めるときにはダイレクトメールを200通以上ポスティングした。今はもうそれほどの店舗数はなく、大御所と呼ばれたお店たちも数多く幕を下ろしている。街が街として呼吸を続けていくためには、新店舗が老舗を敬愛する気持ちと老舗が新店舗を応援する気持ちの相互作用があってこそではないかと淑恵さんの話を聞いて私は思う。

 取材の最後に淑恵さんは私に言ってくれた。


「大丈夫よ。これからどこに行っても大丈夫」


思わずメモを取る手を止める。「尾道じゃなくても、どこに行ってもその場でおもうことのできる街があれば、大丈夫よ」。返す言葉が見つからなかった。取材前に本連載を読んでくれたという淑恵さん。もしかしたら、私の情けない略歴を知っての言葉かもしれないが、純粋にうれしかった。


 もしかしたら、この先私も尾道の地を離れるときがくるかもしれない。そんなとき思い浮かぶ顔やお店はもう一つではない。それはどれほど幸せなことだろう。


 違う街でも私はお腹が空いたら必ず思い出す。竹の皮に包まれたほかほかのちまきとそれを作り出すやさしい手と顔を。でも、今は思い浮かべるちまきよりも実際に食べられるちまきがいい。


 お腹が空いた。私の足はもう一楽に向かっている。


 

ふじいむつこ

1995年生まれ。広島県出身。物心ついた頃からぶたの絵を描く。2020年に都落ちして尾道に移住。現在はカフェでアルバイトしながら、兄の古本屋・弐拾dBを舞台に4コマ漫画を描いている。

Twitter@mtk_buta

Instagram@piggy_mtk


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