BLM(ブラック・ライブズ・マター)や#MeTooをはじめ、特定のアイデンティティー(人種、民族、ジェンダー、LGBTQなど)を持つ人たちに向けられる差別をなくそうという運動が世界中で拡大している。その一方で、世界経済フォーラムが発表したジェンダーギャップ指数(19年)で121位と下位に沈むなど、日本はまだまだ……という状況が続いている。そんな中、人種差別やジェンダー差別に対する歯に衣着せぬ発言で注目を集めるのが、ドイツ人の父と日本人の母を持つサンドラ・ヘフェリンさん。「いまの活動の原点は自分がハーフであること」と言う彼女に、いま考えていることや、これから気をつけたいことなど、人種・ジェンダーに焦点をしぼって聞いた。
撮影:西邑泰和(GLEAM☆)
ドイツと日本にルーツを持つサンドラさんの現在地
――サンドラさんは約20年前、TBS『ここがヘンだよ日本人』に出演したのを機に、物書きとしての活動をはじめました。当時はあくまでも日本の外側にいるという感覚でしたか?
『ここがヘンだよ日本人』は外国人が日本にあれこれ言う番組で、私も外国人としての意見が求められていましたね。実際、当時の私は22~23歳で日本に来たばかり。あの頃の私にとっての日本は、いまよりも外国っぽい部分がありました。
――当時と比べて、現在のポジションに変化は?
日本の会社に就職して、日本に長く住むことで、いつまでも外から日本を見るということはなくなりました。ふつうの「日本人」とは違うかもしれないけど、それでも日本社会の一員として見るようになって。
でも、生まれ持った外見は変わらないわけじゃないですか。だから、長く日本に住んでいるからといって周囲の反応がそんなに変わるわけではありません。観光客が多いエリアで歩いていると、日本に来た外国人への街頭インタビューで声をかけられることもよくあります。「街頭インタビューなんて、どうでもいいじゃないか」と言われればそれまでなんですけど。
それでも、「消費税増税についてどう思いますか」や「コロナウイルスでお出かけできなくてストレスたまりませんか」みたいなテーマで声をかけられたことはありません。街頭インタビューに出たいとか、ものすごくつらいわけではないんですけど、やっぱりふつうの日本人として扱われたいなという気持ちもあります。
サンドラ・ヘフェリンさん。ドイツ・ミュンヘン出身。多文化共生をテーマに執筆活動を行う。著書に『ハーフが美人なんて妄想ですから!! 困った「純ジャパ」との闘いの日々』(中公新書ラクレ)、『体育会系 日本を蝕む病 』(光文社新書)など多数
――20年経っても、そんなに変わりませんか。
お店に入ったときにめずらしがられるといったことは昔ほど感じませんね。それも外国人や外国にルーツがある人が増えてきたから驚かれなくなっただけであって、地元の人と認識されているわけではない。だからこそ、街頭インタビューで声をかけられたい(笑)。
――そうした気持ちを表現したのが著書の『ハーフが美人なんて妄想ですから!!』ですよね。当時、ハーフを代表して、という意識はありましたか?
ハーフを代表するとまでは思っていないですけど、日本にたくさんいるハーフの一人として、ハーフを取り巻く状況を知らせたいという気持ちはありましたね。
――最新作の『体育会系 日本を蝕む病』では少し、サンドラさんの問題意識が変わったようにも思えます。
どちらも社会が変わってほしいという共通点はありますけど、日本に住んでいる日本人は多かれ少なかれ、本で書いた体育会系的な根性論に接しているので、みんなで考えてラクになるように変わっていけたらいいなという気持ちで書きました。
『ハーフが美人なんて妄想ですから!! 困った「純ジャパ」との闘いの日々』(左)と、『体育会系 日本を蝕む病 』(右)
悪意を持った発言や行動が差別になる!?
――著書だけでなく、さまざまなメディアでも発信されていますが、サンドラさんに声がかかる理由はやはり「外国人」的な視点が求められている?
おそらく日本と外国の両方の視点を持っているからですね。とくに人種やジェンダーの分野に関して、日本とドイツで生活した人間ならではの視点が求められているんだと思います。
――人種やジェンダーの問題に関して、何が差別として問題になるんでしょうか。
いくつか象徴的な例を挙げると、人種的な話では、ミス・ユニバース日本代表に宮本エリアナさんが選ばれたときですね。彼女の父親はアフリカ系アメリカ人で、母親は日本人です。つまり黒人と日本人のハーフなんですけど、「日本代表なのに黒人だなんて」という意見が当時あったんです。これは典型的な差別です。
ハイチ系アメリカ人の父親と日本人の母親を持つ、テニスプレイヤーの大坂なおみさんもそうです。彼女がグランドスラム初優勝を果たしたとき、「今朝は何を食べましたか?」「たらこのおにぎりです」という日本の記者とのやりとりをマスコミは喜んで書いたんです。
でも、BLMで彼女が当事者としてTwitterでつぶやいたとたん、「そんなことをつぶやく人だと思いませんでした。失望しました」という反応になってしまったんですよ。おにぎりの話をしていたときは大喜びだった人たちが、社会的なことをつぶやくと離れていく。そういうのを見るとつらいですよね。
――ジェンダーの問題では、先日、東洋経済オンラインでポテサラ騒動(※)について言及されていましたね。
ジェンダーの問題を象徴する話ですよね。発端はほんの小さい出来事ではあるんですけど、それがあれだけ拡散された。日本の社会では女性に対する期待度が異様に高いんですよ。政府が推進する「すべての女性が輝く社会づくり」もそうです。女性はフルタイムで働いて、できればサザエさんみたいにみんなで暮らして介護しましょう。そして女性はいつも元気で笑顔なんです、みたいな(笑)。
ところが、女性に対して期待度が高いわりには、女性を低く見ているところもあって。テレビCMのトイレ掃除のシーンにはいつも女性しか登場しないとか。男性が登場しないのはなぜなのか。単なるCMですけど、いろんなものがつまっていると思う。
また、東京医科大の一般入試で女子の受験者の得点が一律に減点された問題はテレビでも大きく報道されましたよね。これはほかの国でも話題になりました。ドイツのネットニュースでも「日本はありえない」という論調で書かれていて。くやしいんですけどね、「日本は」という書き方に関しては。
※スーパーの惣菜コーナーで高齢男性が子連れ女性に対して「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と言い放った様子について書いたツイートが10万リツイートを超え、大きな注目を集めた
――こうした差別が生まれるメカニズムの根本には何があるんでしょうか。
差別は必ずしも悪意のあるものだけとは限りません。何気ない行動や言動が、残念ながら差別につながることもあります。その出発点となるのが、決めつけと押しつけです。
たとえば、見た目が外国人風な人に「あなたは外国人だから英語ができるんでしょ」と聞くこと。その人は悪気がなくて、むしろ「英語ができてうらやましいな」「私も英語を習いたいな」程度の気持ちで聞いているんですけど、はたして顔が外国人だからといって本当に英語ができるかどうかはわからない。
ポテサラ騒動なら、「母親は手作りして当たり前」という決めつけがあっての発言だし、女性に対して「ある程度の年齢の女性なら子どもがいるはず」「料理は得意なはず」「会社では上役じゃなくてサポート的なことが得意なはず」といった先入観が差別につながっていく。
「人を見た目で決めつけるのはよくない」とさんざん言っていますけど、そういう私も見た目で判断してしまったことはあるんです。自分の見た目が外国人風なので、私が日本語で問い合わせているのに、相手が片言の英語で返してくることが結構あって、そういうことにイラだっていた時期があったんですね。そんなとき、ある会合に参加したら、日本人に英語で話しかけられて「ああ……まただ」と思ったら、実はその人はシンガポール人だった(笑)。
その人は英語で話すのが自然だったのに、私といえば「また日本人に英語で話しかけられた」と勝手に怒っていて……視覚から入る情報って過信してしまう。自分の過去の経験と照らし合わせて勝手に決めつけてしまいがちなんです。
あまり決めつけないで、「どんな人なのかな~?」と近づいていくのが一番自然かもしれない。みんなそれぞれ違うので、まずフタをあけてみないとわからないっていうことを意識するのが一番安全なんじゃないかと痛感しました。
――NHK『おはよう日本』の緊急避妊薬を巡る特集の中で、日本産婦人科医会の前田津紀夫副会長の「日本の若い女性は性教育が不十分だから安易に緊急避妊薬に流れてしまうことを心配している」という旨のコメントが議論を呼びました。こうした権威ある人間による決めつけも、差別を助長することになりますよね。
避妊は男性と女性の話だから、女性だけが気をつければいいという話ではないんですよ。妊娠は必ず相手がいてのこと。「性教育が足りていない」と言うのは問題ないと思うんです。でも、それは男性も女性もという話です。若者に性教育しましょうという発言ならまだわかるんだけど……。
「性教育をしっかり受けていない女性は若くして妊娠してしまって、非常に困ったものですねえ」という理解だから、解決方法も「不良少女をなくしましょう」みたいなレベルにしかならない。本来なら、男女ともにオープンに性教育を受けるべきなんです。
とはいえ、「うちの子にはまだそんなことを教えてほしくない」という保護者もいる。そのあたりの意識はヨーロッパとはかなり違うところだと思いますね。親も先生もみんな教えようというスタンスだから。
――相手を不愉快な気分にさせるかどうかは差別の基準に入りますか?
不愉快に思うかどうかだけでは不十分ですね。そうでないと、何でもかんでも差別になってしまうから。あくまでも、事実ではないことを決めつけられることにあると思います。
一つ付け加えると、わかりやすさを追求するために簡単にカテゴライズしたがることも差別を生む一因として指摘できると思います。たとえば、外国人と日本人に分けて、さあ議論しましょうと言っても、いまの時代、そんなにはっきり分けられないんですよ。私も外国人といえば外国人だし、日本人といえば日本人でもあるわけですから。
最近は少なくなりましたけど、「サンドラさんは自分をドイツ人だと思ってる? それとも日本人?」とか、「日本語とドイツ語だと、どっちが得意?」だとか、そういうことを探りたがる人が多くて。気持ちはわかるけど、私はしつこく両方ですと答えています(笑)。
ケンカして最後は仲直り……はマンガの中だけ
――差別につながる決めつけや押しつけをしないためには、ある種の先入観を取り除いていかなければならないわけですね。
そうですね。人種の話でいえば、大坂なおみさんのように、いろんなバックグラウンドを持った日本人は今後もっと増えていきます。そういう事実を理解したくない人たちが、Twitterで「彼女はどう見ても外国人でしょ」と言ったりする。でも、彼女は彼女として存在しているわけですよ。だからまずは、多様な人が日本で暮らしていることを認める、受け入れることが必要です。
――差別を考えるとき、いまはポリコレという視点が欠かせないものになっています。ポリコレは差別的な表現や社会制度を中立的にしようというものですが、何をもって中立的と言えるんでしょうか。
差別を是正する=平等にするということですけど、それが「みんなが同じルールに従う」みたいな発想になるのは危険ですよね。それぞれの違いが無視されて、みんなに同じものを与えておけ、という話になりかねないし、校則のような一律のルールを守らせようということになってしまう。
たとえば、ドイツの一部の保育園や学校の食堂のメニューから豚肉をなくしたところ、大きな波紋を呼んだことがあります。それはイスラム教徒やベジタリアンへの配慮した判断だったんですけど、豚肉を全面的に提供しないというのは間違った方法です。豚肉を食べることを強制してはいけませんし、豚肉を食べない人の権利は当然大事にされるべきだと思います。でも、豚肉を食べたい人には提供されるべきだとも思います。
つまり、人間はそれぞれ違うのが当然なのですから、全員に同じものを与えるのではなく、全員が同様に幸せになれるように工夫して、それぞれに合わせたものを与えることが必要なんです。
――差別を是正するために異なるアイデンティーを持つ者同士が声を上げたとき、対話はどこまで可能なんでしょうか。ただ対立が深まるだけ、という可能性もあります。
Twitterだろうと友人同士であろうと、意見がぶつかるのはしょうがないけど、対話自体は成り立つと思います。ただ、対話の結果、同じ結論にたどりつくことはほぼないということは自覚しておくべきです。
夫婦関係や、ブラック企業と社員の関係とか、問題解決を探るとき、「双方の話し合いで」となることが少なくないですよね。ところが、いくら話し合っても、立場が違うものはどうしようもないことが多々ある。
単純な例を挙げると、キンキンに冷えたオフィスが好きな人と、冷房をつけると具合が悪くなる人がいたとき、どんなに話し合っても折り合いはつかないんですよ。極論をいえば、この場合は別々の部屋で仕事をすることがベストな解決方法だったりするんです。なぜならば、同じ部屋で互いに妥協し合って、ある時間はエアコンを19℃に設定して、ある時間は冷房を切るということをしても、それが互いにとって居心地の良い温度だとはいえません。残念なことに、お互いが完全に納得する解決方法は「ない」んですよね。
ケンカして最後は仲直り、というか同じ意見にたどりつくのはむずかしい。極論を言うと、パレスチナ問題だってそうですよね。イスラエル人もパレスチナ人も、どちらも自分たちの土地だと主張している。
日本人は「人間はみんな同じなんだから、話し合えばわかる」みたいな幻想を持っているところがあって。私も信じたい気持ちはあるけど、実際はそんなにうまくはいかない。そのことを頭のどこかに入れた上で、粘り強く対話をしていく必要があります。
――外野は意見するなという声も一部にあります。
日本とアメリカのハーフの知り合いの話をブログで書いたとき、「黒人ハーフじゃないのに何を書いちゃっているんですか」みたいなメッセージを受け取ったことがありますけど、私は当事者じゃない人が意見を言うことは悪くないと思っています。そうでないと広がらないから。当事者じゃない人に伝わることで、考えるきっかけにもなる。
もちろん、当事者ではない人はある程度の自覚が必要です。そういう経験をしていないのに、日本に黒人差別はないとか、安易に否定してはいけない。私が日本に黒人差別はないですよと言ってはいけないということです。
ジェンダー問題も同じで、男性側が女性差別はないと断言しちゃうのはまずい。発信する男性は気をつけないといけないですよね。そもそも差別は洞察力がないと見逃してしまいがちですから。
――ポリコレを巡る運動が活発になった背景には、SNSによって個人がエンパワーメントされたことも一つの大きな要因だと思います。サンドラさんはSNSをどう評価していますか?
SNSはすばらしいですね。誹謗中傷を含めてその弊害が語られるんですけど、それ以上に良い部分もあると思っています。BLMも、黒人が白人警官によって殺された事件の模様が動画でアップされたことが発端です。もし活字だけだったら、ここまで大きな運動にならなかったかもしれない。
動画をアップする人がいて、声を上げる人がいて、拡散する人がいて、議論する人がいて。それらはすべてSNSでスタートしていますよね。ずっとこっそり悪いことをしていたのが、SNSの登場でそれができなくなった。そういう良い点がSNSにはあると思います。
――個人が意見を発信する機会が増えて、いろいろな意見を目にするようになると、とくに自分が当事者ではない場合、どれも正しく思えて、翻弄されることもしばしばあります。
人種やジェンダーに関しては、あまり翻弄されないんですけど、私が唯一、どういう立場に立っていいかわからないのが風俗や夜の世界で働く女性たちのこと。自分の意志で働きたいならいいじゃないかという見方もあれば、そんな簡単な話ではなくて、嫌な思いをした結果、精神的に病んでしまう女性もいるんだから、ほかの仕事に就いたほうがいいに決まっているという意見もあって、なかなかむずかしい。
ただ一つ、みんなが必ず何に対しても意見を持たなければいけないとは思いませんが、中立を装うことは避けてほしい。誰かがはっきりした立場の主張をしたとき、「世の中にはいろんな人がいるから、そうやって言うのはどうかと思う」といったことを言う人がいるんですよ。
そんなことを言うぐらいなら、黙っていたほうがいいと思う。結局、何が言いたいのかわからないし、個人的にはイラッとしてしまう。アクティブに発信している人にとってはいらない意見ですよね。世の中にはいろんな人がいるなんて、それをわかった上でどうするかを発信しているんですから。
ポリコレのこれからと、個人や企業が気をつけるべきこと
――ポリコレを無視することができないいま、私たちはまず何に気をつければいいでしょうか。
私は形から入ることがすごく大事だと思っています。先ほど例に挙げた、テレビCMでトイレ掃除はいつも女性ばかりなのが問題だと思うのは、小さい子どもも観る可能性があるからです。「トイレの掃除はママがやることなんだな」と無意識に思ってしまったら、社会にとってすごくマイナスなことです。
そういう意味で、アメリカで行われているアファーマティブ・アクション(社会的に差別されている人たちを優遇する措置。おもに過去に受けた教育などに関する差別をなくすことが目的。大学入試で黒人の学生が少ない大学では同じ点数のとき黒人を入学させたりする)にも賛成です。
そうじゃないと、議論が前に進まないと思うから。私は日本でもやったほうがいいと思っていて、医学生の受験の逆ですね。男子と女子が同じ点数だったら女子を積極的に入学させるとか。形だけと批判する人もいるかもしれないけど、進歩ってそういうものですよ。
――20年前は、問題にすらなっていなかった?
問題になっていなかったことが多いと思います。#MeToo運動がここまで大きくなったのは2017年のことです。20年前は日本だけじゃなくて、ほかの国でも話題に上がらなかった。むしろ20年前のドイツでも「ブスのひがみ」という言い方がされることもありました。いまではそういう言い方はできないわけじゃないですか。これは大きな進歩ですよ。
――形から入るというのは、差別的な表現を使わないということにもつながりますね。
これからは表現や言葉の使い方にもしっかりと気を配らなければいけなくなります。アメリカのジョンソン・エンド・ジョンソンは、BLMを受けて美白製品の一部を販売中止にしました。自然な肌の色よりも白いほうがいいと受け取められることを問題視したからです。
日本でも今後、美白という言葉は使われなくなっていくかもしれない。そのとき、どういう言葉に置き換えるかですよね。なめらかな肌なのか、すべすべな肌なのか。「黒い肌を否定的に見ているんじゃないんですよ」という会社のメッセージは伝わったほうがいいと思う。
――美白がいいというイメージはメディアの影響ですか?
日本には「色の白いは七難隠す」(色白の女性はさまざまな欠点をカバーして美しく見える)ということわざもあるように、白人うんぬんではなくて、もともと日本にあった価値観であることは確かなんですけど、いまの時代にはもしかしたらそぐわない言い方なのかもしれません。いまの日本には黒人も生活していますから。
美白だけではなくて、私にとっては「日本人の髪に合う」「日本人の胃腸に合う」といった表現はちょっと気になってしまう。私も日本人なんだけど、商品の対象に私は入っていないだろうなって思うから。「日本人」という言葉は余計なんじゃないのって。
――最近では「ブラック企業」という言葉も適切なのか、議論になっていますね。
当然の議論ですよね。『体育会系 日本を蝕む病』では、私もブラック企業という言葉を使っていて、あの時点では置き換えるのがむずかしかった。そのとき、どんな言葉に置き換えればいいのか。「体育会系企業」というふうに言えばよいのか、それとも「労働条件が悪い企業」と言えばよいのか。
――ドイツでは「ブラック企業」という概念はあるんですか?
ないですね。
――どんな言葉に置き換えるのがいいのか議論の余地はあるけど、議論そのものが出てくるのはいいことだ、と。
そうですね。ブラック企業という言葉が黒人にとって不愉快なら、その気持ちは尊重しなければなりません。
ただそのとき、ボヤッとした表現で置き換えてしまってはいけませんよね。労働条件が悪い会社は名指ししなければいけないし。そこをたとえば労働条件が悪いって決めつけないでという話になると、問題を直視しないことになってしまうから。
――間違った表現の使用を防ぐためにできることは何でしょうか。
企業がCMをつくったり、PRをしたりするときは、当事者に見てもらうのが手っ取り早いですね。日本にはいろんなバックグラウンドを持った人が生活しているんですから。NHK『これでわかった!世界のいま』という番組が、黒人の描写に偏見があるという批判を受けて謝罪したことがあったんです。
番組はBLMの現状を伝えるアニメを製作したんですけど、黒人の屈強な男性たちが経済への不満から暴れているかのように描かれていました。黒人男性の描き方も画一的で、その上、BLMは経済格差もあるんだけど、BLM運動の発端となった警官による事件をはしょってしまって、大きく誤解を与えるものでした。
これって簡単に防げたはずなんです。日本にはたくさん黒人がいるんだから、製作したアニメを黒人に見てもらえばよかった。いやらしい言い方になるけど、もし炎上してしまっても、「事前にチェックしてもらったんですよ」という保険にもなるし。言い訳だって言われるかもしれないけど、チェックしてもらわないよりはいいはずです。
多文化共生が実現するとき……
――『ハーフが美人なんて妄想ですから!!』のあとがきで、「10年後、20年後、ハーフが日本社会の中でどのように変化していくのかが楽しみ」と書かれています。現状はどうでしょうか。
本を出したのが2012年ですけど、当時と比較したら、SNSの利用も手伝って、若いハーフの人が発信するようになりましたね。
あんなさんという日本とアメリカのハーフの女性が、Twitterでハーフの問題に対してたくさん発信しているんですよ。彼女はよく聞かれる質問をまとめた初対面カードを作って、ネットニュースで取り上げられたんです。「夢は何語で見るの?」とか「日本とアメリカのどっちが好き?」とか、あまりにも同じことを聞かれるのに嫌気がさしていて。
私が若い頃に怒っていたことと一緒で、その点ではまだまだ社会でちゃんと受容されているとは言えないんですけど、当事者がどんどん情報を発信しているのはとてもいいことだと思います。
――サンドラさんの目指す多文化共生とは、どんな形が理想でしょうか。
「ハーフ」とか「帰国子女」とか、そういう言葉を使わなくてもいいような社会になるのが一番いいと思います。あと「多文化共生」は良い言葉ですけど、多文化共生が当たり前になれば使わなくても済む言葉だとも思います。
多文化共生が意味するのは、いろんなバックグラウンドの人がいて、それぞれが居心地のいい社会のこと。残念ながらまだ達成できてないですよね。だから追求していかないといけないし、それまではしつこく多文化共生という言葉は使っていこうと思います。
あとはソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)が、会社をはじめ日本社会のいろんなところで意識されるようになるといいですね。多様性とも矛盾しない概念ですから。
ハーフを考えよう
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