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執筆者の写真Byakuya Biz Books

さやわかさんに聞く、ポップカルチャーと二次創作の幸福?な関係


イラスト:まそ


「ゆっくり」を起点にしたインタビュー、3人目はライター、物語評論家のさやわかさん。ポップカルチャー全般に対して深い知識を持つさやわかさんをお迎えし、「ゆっくり」と「東方Project」を足掛かりに、二次創作の歴史から原作者と二次創作ファンの関係、二次創作を含むオタク文化の現在地まで、さまざまなトピックを横断しながらお聞きした。



東方Projectと二次創作


――東方Projectは二次創作が盛んですが、二次創作文化って東方以前も活発だったんですか?


そうですね。二次創作は日本のポップカルチャーの中でふつうのものとして根付いていました。1970年代から同人誌即売会であるコミケ(コミックマーケット。第1回開催は1975年)はありましたし、当時は二次創作ではなくアニパロ(アニメのパロディー)という言葉が使われていましたが、『機動戦士ガンダム』『宇宙戦艦ヤマト』『サイボーグ009』の絵を描くといったパロディー文化はたくさんありました。


また80年代には『キャプテン翼』をはじめ、女性を中心としたやおい(今で言うBL)シーンがどんどん盛り上がります。原作は終了しているんだけれども、ファンの中ではいろいろな形で話が進んでいく――たとえば男性同士が結婚して子供を産んでしまうような展開もあって。そういう点でも活発でした。


90年代でいえば、『新世紀エヴァンゲリオン』が有名ですね。GAINAX(アニメ放送当時の原作者)はオタク的なカルチャーと親和性が高い会社だったので、同人に対するガイドラインも非常におおらかというか、誰もが参入しやすい方法を採っていました。エヴァがテレビで放映された1990年代後半(1995年10月4日~1996年3月27日)はネットの普及期ですけど、GAINAXのWebサイトには誰でも使っていいバナーが置いてあって。同人活動にいちいち許可取りが必要という雰囲気でもなかったんですよ。


そして東方の二次創作が爆発的に行われるようになったのは2000年代(以下、ゼロ年代)の後半、つまりニコニコ動画ができてからですが、二次創作がゼロ年代になってさらに活性化するのは、やはりインターネットの普及によって、データや作品の流通が加速度的に行われるようになったからでしょう。その結果、かつてのアニパロなどが、二次創作という言葉で、再注目されるようになったと言えると思います。


――「ゆっくり」を見ていると、東方Projectはn次創作的な広がりを見せていますね。


n次創作の典型的なパターンという意味で、すごく興味深いですね。ZUNさんは東方Projectの原作者だけど「ゆっくり」を作ったわけではないし、「ゆっくり」のイラストも、もとはAAだし……つまり誰もが明確に「ゆっくり」の著作権を主張できるわけではない。二次創作、二次創作の二次創作……の先に出てきたもので、今ではそれがもともと何のために作られたのかわからない。


もとの強い意味を失っているからこそ、かえって使い勝手がよくなり、誰でも意味を足しやすくなっているわけですよね。足された意味は使ってもいいし、使わなくてもいい。東方Projectと同時並行的なもので言えば、初音ミクはネギを持っている姿が有名ですよね。初音ミクとネギは何の関係もなかったんだけれども、ネットミームになったときにネギを持たされたから、なんとなく持っていても変でないような気がする……n次創作にはそういうおもしろさがあります。


――「ゆっくり」は今や原作とは別物になっているわけですけど、原作にメリットってあるんでしょうか。


キャラクターが広がっていくことが単純にいいことだと仮定するなら、原作にとってもメリットはあると思います。これは「キャラクター」「キャラ」という言葉の定義に関係するんですけど、かつて、伊藤剛さんや東浩紀さんが定義したことで、僕もそうだと思うのが、キャラっていうのは、つまり別の作品に行っても同一性を保っている存在なんですよ。


たとえば、鳥打帽と虫眼鏡、パイプが表示されたらシャーロック・ホームズだと認識できます。コナン・ドイルが書いた小説だって伝播していく力はものすごいわけだけど、小説を読むというハードルは高い。でも、鳥打帽と虫眼鏡とパイプを持ったキャラだけとなると、さらに流通しやすくなるんですよね。キャラ属性、キャラ付けをどこまでも失っていないから、原点に戻ることだってできるようになっている。


「ゆっくり」の場合は、霊夢なり魔理沙なりっていうキャラの同一性を持っていて、色でも服でもいいんですけど、際立った要素があります。『ONE PIECE』のルフィの腕が伸びる、麦わら帽子みたいな要素はそれはそれで強力なものですが、東方の場合もそこがうまくできているわけですね。



二次創作はずっとグレー


――そもそも、二次創作とはオリジナルの原作(小説やマンガ、音楽など)を流用して作ること、というざっくりした理解でいいですか?


はい。原作に対して別の要素を付け加えたりしながら、自分でもう一度、書き(描き)直すことです。二次創作作品では、しばしば原作のキャラクターだけを使いがちなので、キャラクターという概念と二次創作は切っても切れないような形になることが多いですけどね。


――原作を流用するわけですから、基本的にはグレーですよね。


海外の言葉でいうファンアート、日本語での二次創作は、すべてグレーですね。海外の法律にはまた別の事情がありますが、日本の著作権法では発見次第すぐに罰せられるような、現行犯逮捕ができるようなものではなくて、あくまでも親告罪になっています。つまり、著作者の気持ち次第みたいなところがあるので、いわばお目こぼししてもらう状態が続いています。


だから、わざわざ許可を取りに行くとNGと言われることのほうが多いんですよね。これを勘違いしている人がいて、「自分たちがやっていることはなんとなく認められているから、当然、公式も認めていることで、許可を取ったほうがいいんじゃないか」「もっと大手を振って二次創作をやりたい」と考えてしまう。そうなると公式はダメと言わざるをえないわけです。これが明文化されてしまうと、ほかの人も二次創作を作れなくなる、という状況を生むこともあります。


――市場がすごく大きくなっていても、このまましょうがない?状態が続くんでしょうか。


しょうがないというか、人の作りたいという気持ちは止められないので、続くと思います。そして作ること自体は、自分の手のひらの上というか、誰も見ていないんだったら別に構わない。ただそれが、仲間内で見せることから、印刷したので実費だけいただきますとか、手間賃が入ります、みたいな形でお金が絡むようになると、だんだん雲行きが怪しくなってくる感じですかね。


――好きだから作りたいという動機のほか、クリエイターとしては制作するメリットも大きいんでしょうか。たとえば東方を題材にしたほうが作品を発表しやすい、みたいな。


これは明確にありますね。同人界隈でよく言われているのは、「二次創作だったら描けるけど、オリジナルは描けない」「二次創作だったら読んでもらえるけど、オリジナルは読んでもらえない」というものです。つまり創作コストが下がるんですよね。作者に技術力とか知名度がなくても、それなりに活動できてしまう。キャラクターや物語の設定を新たに考えたりせずに、すでにある素材をどう使うかだけ考えれば作品が作れるし、さらには読者も知っているから読んでもらいやすいわけです。



二次創作では作者すらジャマになってしまう!?


――二次創作って、作者の意図からは離れていくじゃないですか。そこがおもしろいポイントでもありますよね。


行きすぎるとやっかいなことになるので、難しいところではありますね。二次創作で知ったファンが「作者のくせにジャマするな」と言ってしまう状況になることすらあるからです。


たとえば『聖闘士星矢』はアニメで人気が出て、二次創作もたくさん作られるほどファンコミュニティーが大きくなりました。そして最近になって続編を作者とタッグを組んで作ることになったんですが、声優を変更すると発表したら、ファンコミュニティーが怒ったんです。「そんなことは許さない」「私たちの『聖闘士星矢』に何をしてくれるんだ」と。作者にとってみれば、なんで作者である自分のやることに文句を言われなければいけないんだという気持ちになってもおかしくはない。ファンダムが大きいと、ファンと作者の軋轢が起こることもあります。


――ちなみに、マンガ原作のアニメは作者に許可を取り、正当な手続きを経て作られるわけですから、一次創作と言えますか?


厳密に言うとそれは二次創作になります。ただアニメの場合は、アニメから入る人がめちゃくちゃ多いので、そっちがメインのように思う人もいる。オタク系のカルチャーって、原作はよく知らないけれども、アニメを観たらおもしろかったから、原作を読んでみたっていう人がすごく多いんですよね。そうなると、本当は逆なんだけれども、アニメのほうが原点みたいになってしまい、ファンの意識としてマンガは一番偉い二次創作みたいなポジションに格下げされている可能性はありますよね。


――へえ、逆転してしまうとは。


昨年公開された映画『THE FIRST SLAM DUNK』でも似たようなことが起きましたよね。原作者の井上雄彦さんが監督を務めましたけど、声優を変更すると発表したとき、アニメ版のファンがめちゃくちゃ怒った。「こんな映画は観ない」とか、「井上雄彦はダメだ」みたいな論調も出てしまった。いざ公開されたら、みんな大絶賛だったわけですけど、そのぐらい自分の原点としてのアニメ、みたいなものに重きを置いている人は多いですよね。


――作品によっては二次創作ファン側の圧が強くなることがあるのか……。


めちゃくちゃ多いと思いますね。声優変更に限らず、二次創作のほうがもっといい話じゃん、と言われることもあります。有名な例だとエヴァは結末が物議を醸すようなもので、しかもそれが可能世界的なラストだったんですよね。いろいろな可能性が考えられる。「それなら、私がシンジ君が幸せになるお話を考えよう」みたいに考える人も多かったですね。


二次創作はそうした可能世界に対するあこがれが原動力になるんですよ。「みんな仲良しで使徒を倒せればよかったのに」とか、「やっぱりアスカと結婚したほうがよかった」とか。そういう「私が見たかったやつを書く」とか「原作の内容をもっと拡大したやつを描く」のが二次創作の基本です。でも結局、一次創作作品だって、何かほかに見たものがあって、それに対して満足していれば、創作は行われないわけです。「これじゃないな」って思うから、二次創作じゃないけれども、自分なりに語り直す。そうやって文化は続いていると思いますね。


――「なろう」小説は二次創作文化から生まれた、という話を聞いたことがあります。原作とは違う設定なりストーリーなりが多くの人に共有された結果、それが新しいジャンルにすらなる、ということなんでしょうか。


ジャンルというのはそうやって生まれていくものだと思います。エヴァの結末に納得がいかない人がいっぱいいて、アスカと結婚するエンド、綾波レイと結婚するエンドが生まれていった結果、その人たちが共有する設定ができていく。そしてその部分だけがメタ化していけば、たとえば何度も何度もやり直す話を書こうとなってくると、『STEINS;GATE』みたいな話になっていきますよね。


「なろう」小説も同じで、ナーロッパと言われるドラクエ的な世界観が共有されていて、それをどう運用するかという話ですよね。そのなかでn次創作的なことがくり返されていくんですけど、そのうちトラックに轢かれて転生する、転生トラックといった独自の概念が生まれる。すると今度はさらにそれをメタ的に捉えて、どう処理するかといった話になり、さらに広がっていくんです。


――「なろう」の中でさらに新たなジャンルが生まれるんですね。


「転生した先で、主人公はめちゃくちゃ能力がある」のは絶対に外せなくて、それが「さすがです、お兄様」と女性キャラクターに言われるのか、パーティーのメンバーから嫌われているんだけど、本当は能力があるんだみたいな感じにするのか、少しずつズラしを入れてくんですね。その結果、パーティーの中で疎まれる話のほうがおもしろいとなったらその設定をどんどん積み上げていくし、異世界転生したら悪役令嬢だった話がおもしろいとなったら悪役令嬢ものが増える。


「なろう」小説ではナーロッパ的な世界が共通認識として必要とされていて、なんとなくそれを理解した上で読むものにはなっています。「どうせこうなるだろうなと思って、やっぱりそうなった」みたいな話が多いんですけど、その過程を楽しむものなので、それでいいんですよね。



二次創作文化は女性コミュニティーが出発点だった


――ゼロ年代以降はネットの普及が二次創作を活性化させた一つの要因だったわけですが、ネット登場以前は何が二次創作を支えていたんでしょうか。雑誌ですか?


雑誌で言うと『月刊OUT』というアニメ雑誌がアニパロを牽引しましたが、より活発になっていったものは同人誌即売会だと思います。そもそもコミケも最初は少女マンガの読者が、少女マンガについて語ったり、同人誌を作るコミュニティーとして発達したものです。これは意外と知られていないんですけど、「24年組」と言われた少女マンガのファンコミュニティーなんかは大きな関連があります。それがやがて、マンガやアニメについて語る人たちが増えていって、アニパロ雑誌を生むんですね。


70年代後半から80年代にかけて、いわゆるアニメ雑誌なら『アニメージュ』や『アニメック』、ファンによる投稿中心の雑誌なら『ファンロード』や『ぱふ』、『月刊OUT』などが登場し、そこで読者同士の交流が行われていきます。そういうなかでも「○○さんの描いたイラストをこんなふうに描いてみました」とか、読者が描いたマンガをさらに二次創作するような文化が育っていました。


『月刊OUT』はいち早く、『機動戦士ガンダム』や『ルパン三世 カリオストロの城』のアニパロを載せました。漫画家の吾妻ひでおさんが描いたクラリスが表紙になったりしていた。許可取りしたのかわからないですけど、公式ではないものが雑誌の表紙になるわけですね。そうした雑誌がどんどん増えていく一方で、公式こそをよしとする考え方もあって、『月刊ニュータイプ』のように、クリエイターや作品を推していく、グラビア誌のように見せていく方針もありました。


――二次創作は女性のコミュニティーから生まれたんですね。


オタク文化って、もともと女性がすごく強いものなんです。オタク文化全体として考えると、男性の存在感が強くなるのは80年代後半になってからです。いわゆる萌え絵も元を正せば、女性が少女マンガの二次創作をしたり、あるいはその少女マンガ自体も今のBLの走りみたいなもの――昔は耽美(たんび)と言いましたけれど――を描いたりしているなかで、ファンアートがどんどん伸びていったことから派生して生まれたと考えていいでしょう。


――萌え絵のルーツは少女マンガなんですか!?


吾妻ひでおさんの『シベール』という同人誌なんかがそうですが、女性だけでなく男性たちが、いわば「俺たちもなんかしようぜ」みたいな感覚から、少女マンガの絵柄を使って、セックスを描いたんですよね。少女マンガのキャラクターでポルノを描いたらビックリだろう、こんなものは見たことがないだろう、というような合わせ技をやった。そして実際、みんな驚いたわけですよ。なんか反逆的でかっこいいし、かわいい、と盛り上がっていくんですね。


ただそれが80年代中盤以降になると、本当にエロくて好きだって言う男性が現れるようになります。もともとは興奮を喚起させるものとして描かれたものではなかったのに、性の対象として消費されるようになっていった。だから初期に描いた人たちには、そういう消費のしかたには乗り切れないという人も多いです。そこにはちょっと世代の断絶があるんですけれども、やがてエロがどんどんメインになっていくんですね。そういうものが今の萌え絵のルーツにはあります。


そうした流れがどんどん大きくなり、つまりマンガやアニメの男性ファンが勢力としてはメインのように見られるようになっていきました。90年代半ばにも岡田斗司夫さんがオタクは偉いんだ、みたいなことを言って世の中の価値転倒を図りましたし、SFファン(男性が多かった)とも融合したりして、マンガやアニメも男性が中心なんだという価値観が広がっていきました。ややこしいのは、女性側も「オタクって、男が萌えとか言っているやつでしょ? キモッ」みたいな認識だったんですね。性愛を描くという意味でも、もともと、男女の差は小さかったんですが、いつの間にか男性メインのように思われるようになった。



オタク文化は萌えから推しへ


――今ではオタクという意味合いは変わりましたね。


「アニメとか見てるヤツ」ぐらいの意味になりましたよね。男性を中心にした大きいコンテンツもあまり生まれなくなったし、そもそも人気のアニメやマンガがあっても、シーン全体を揺るがすようなムーブメントが生まれにくくなりました。最近で男性オタクっぽいコンテンツで盛り上がったのは『ウマ娘』なんかで、二次創作も盛んですけど、中央競馬会によるスポンサードなので、ポルノは禁止されています。どちらかというと、アイドル文化に近いですよね。女の子たちを応援し、競馬を楽しむみたいな。


今は全体的に、応援の文化のほうが強くなっています。いわゆる「推し」ですね。萌えから推しへ。萌えってある種のフェティッシュを楽しむものだったので、エロティシズムと結びつきやすいですし、斎藤環さんがかつて言ったようにちょっとはずかしいものでした。個人的なものですよね。それが推しの文化になると、もっと組織だっているというか、みんなで集まって一斉に声を出そうぜみたいな文化に近くなっていくわけで。これはゼロ年代半ばまでのオタク文化のイメージとは明確に違います。昔からファンが団結するような動きがなかったわけではないですが、今はそれがメインになっている。


――推しっていつぐらいから言われるようになったんでしょうか。


推しという言葉が出てくるのは、「モーニング娘。」や初期のライブアイドルがブームだった2000年代の前半です。つまり男性オタクの側の言葉だった。それが加速度的に使われるようになっていくのは、女性オタク、特に腐女子が注目されたあとなんですが、この推しという考え方は今の時代とすごく合っていて。というのも、いっぱいキャラクターがいる中からこれを選ぶっていう発想なんですよ。フェティッシュや萌えはそうじゃないんです。ポニーテール、妹、ツンデレという概念がある中で俺はツンデレを選んだ、ではないんですよね。抗いがたい部分があるし、場合によっては隠しておきたい。


――なるほど。


ところが、推しは人に知ってもらいたいものなんです。「私はこれを推しますので、この人をよろしくお願いします」みたいに応援する態度です。アイドル文化はもちろんのこと、オタク系の中でも『シスター・プリンセス』や『アイドルマスター』のように、たくさんキャラクターがいるものはこの20年で増えました。それも当初は萌えという概念で捉えられてはいたんですけれども、最終的にたくさんのキャラクター同士が作る人間関係を見るコンテンツになっていき、やがてはその人間関係の中でがんばって生きているキャラクターを応援する、つまり推す時代になっていったんです。


そうすると、人気投票だけじゃなくて、私はこの人が好きという意思表示によって、コミュニティー内に自分を知ってもらうという態度が生まれますし、また、誰それ推しの人で集まりましょう、誰それについて語りましょうという形で、コミュニティー化するんですよ。今の時代はコミュニティー指向がすごく強くなっているので、コンテンツ自体にもコミュニティーであることを求めます。BIG BANGでも嵐でも、あるいはユーチューバーのチームでもいいですけど、「誰が誰にどう話しかけた」みたいなところを楽しもうとする。そして、その楽しんでいる自分たちもコミュニティーを作る。だから萌えという個人的なものじゃなくて、推しのほうが言葉として使われるのは非常によくわかる。萌えは個人的なものなので、最終的には共有できない気持ちだから。


――作り手もそういう意識でコンテンツを作っているんですか?


今の二次元コンテンツはそういうものが多いと思います。三次元コンテンツは偶発的にそうなった部分も大きいと言えますね。たとえばK-POPが2000年ごろに入ってきたとき、肖像権の管理があいまいだったので、ファンが撮った写真がネットにガンガン上がっていたんですよ。その結果、テレビ画面で受ける印象とはまったく違うオフショットが出回ることになりました。


それがまさに二次創作みたいに流通したんです。「本当はあの人とあの人は仲がいいんだ」とか、「本当にライバル関係なんだ」みたいな感じで盛り上がって。まさに人間関係を見るんですね。その結果、共同生活をさせてそこにカメラを入れるシェアハウスものとか、リアリティショーという形で、制作側も誘発するような作り方をするようになりました。


――そこでストーリーは重要ではない?


ストーリーはどうでもいい、とまでは言わないですけど、あまり重視されないですよね。たとえばスポーツマンガで考えるとわかりやすくて、バスケの素人だった主人公がレギュラーになり、チームが地区大会、県大会に進み、最終的にインターハイに出る、といったメインプロットはあるし、そこに紆余曲折もあるけど、大事なのはそこではなくて、そのときに仲間とどういう関係を作ったかなんだという時代なわけですよ。


だから、あの試合で負けたということは大事だけど、話の趨勢自体はそんなに重要じゃないというか。これはゼロ年代半ばぐらいに「コンテンツの時代からコミュニケーションの時代になった」というふうに言われたことですけど、もう少しわかりやすく言うと、物語の時代からコミュニケーションの時代になった、というふうに言えると思います。



どうなる二次創作


――二次創作はオタク文化だけではなくポップカルチャー全体において重要な役割を果たしてきたと言えそうですが、今後もっと発展していくんでしょうか。


二次創作は制約があいまいであるがゆえに広がっていくんですけど、だからこそ、人々の中にルール的なものがなかなか浸透しないんですよね。制御できないからおもしろいけど、制御できないなりの危険さもある。それゆえ、二次創作を「いいもの」として、社会的な立場を確保してあげられるのは、それなりにリテラシーが高い人じゃないとムリだと思います。けど、誰もがそんなに寛容になれるわけでもないでしょうから、僕の考えだと、アーキテクチャ的にというか、創作や視聴、ファンコミュニティーの環境を整備する側が二次創作の意義を理解して、かつその市場を活性化するような立ち回りが必要だろうなと思います。


実際、二次創作コミュニティーでは、しばしば「作者とかどうでもいいんだ」「とにかくかわいいキャラを描いてくれ、キャラ最高」みたいな乱暴な議論も見られます。そういう極端なことを言っていると、シーンは疲弊するし、人が去っていったりもする。それはあまりいいことじゃないですよね。これは初音ミクの初期に起きたことですけれども、n次創作という言葉が流行れば流行るほど、作っている人たちは、「みんなが楽しむコミュニティーに無償で参加すること」を強く求められてしまうんですね。そして、自己主張しようとすると出しゃばっていると思われる。実際、その時代にはn次創作の行き着く先では、最終的に作家は存在しなくなるとすら言われていました。


――二次創作された作品だけが残っていく、みたいな?


ところが、そういう状態から5年、10年経ってみると、実はそうではなかった。初音ミクをうまく使っていた人は結局、その人に才能があったんだ、という話になったんですよ。その際たるものが、もともとハチ(ボカロPとしての名義)だった米津玄師なんかですよね。けど、ハチという名前のままでは、初音ミクを使い続けたままではオリコンの1位は取れないというところに、二次創作カルチャーの忸怩たる部分があると思うんですよね。米津玄師という、自分、になることを選ばないと、オリコン1位にはならない。


もちろん、それはアーティストにとっては自己実現ですから、すばらしいことです。しかしつまり、二次創作という、米津玄師を生んだ環境よりも、米津玄師という「人」のほうがすごいという話になるんです。必ずクリエイター信仰になる。ほか、「歌ってみた」界隈からデビューしたアーティストなんかでも、二次創作の界隈で活動していたことは事務所が伏せたりします。いわば「突然現れた天才を音楽業界が見つけた」みたいなストーリーにされて扱われるわけですよ。そんなの嘘じゃないか、と僕は思うんです。ベンヤミンが言っていたことなんですけど、機械複製技術は作家の地位をいったん下げる――あらゆる人たちに技術を与えるので、すごくいいものだ――けれど、最終的には作家信仰に戻ってしまうと。結局、アーティストや作品を、音楽なり映画なりというジャンルの権威性に回収してしまうんです。


――二次創作文化として発展していくわけではないんですね。


初音ミクはすごいものだったし、今でもその裾野が広がっていると言ってもいいと思うんですけども、ニコニコ動画が出てきた頃の爆発力みたいな、このカルチャーはどうなってしまうんだみたいな感じではなくて、むしろオリコンをにぎわしているのは、そういうものをあくまでもツールとして使って、「次のステップ」として自分たちを出しはじめた人たちですよね。そうすると、もう初音ミクを使って曲を作ろうともしなくなっていく。


二次創作が尊いとか、二次創作によって作品のキャラクターが広がっていくのは間違いない。「ゆっくり」の場合もそうですよね。ただ二次創作はあいまいなカルチャーであるがゆえに広がるけど、限界が急にきて、天井が来るわけですよね。そうすると急に、それを使っていた人のほうが偉いみたいな話になって、かつて「作家は死ぬんだ」とまで言っていたのに、やっぱり死なない、作家はエラい、みたいな凡庸な元サヤ意見になってしまうんだと思います。



結局、作家性はどこに立ち現れるのか


――最近、マンガでもアニメでも、参照性の高い作品が多いですよね。


エヴァの中に『ウルトラセブン』が入っているとか?


――はい。実際それが評価される一つのポイントだったりします。もし「参照元がある=やり直し」と考えるなら、一次創作も二次創作も創作の出発点は似ていますね。


これはすごくあると思います。創作行為はすべてオリジナルであるべきという考え方が支配的だったときもありましたけど、先ほどお話ししたように、一次創作であれ二次創作であれ、自分なりに語り直すことが創作の基本なんです。


エヴァが出てきたとき、監督の庵野秀明さんは「もう新しいものが作れなくなっちゃったらどうしよう?」という当時のクリエイターの悩みに対して、「いや、そうじゃない。むしろ今まで見てきたものを全力でやるだけでいいんだ」という態度をとったんですよね。だからエヴァはどこかで見たような要素の組み合わせなんですよ。しかし、どこかで見たものを過剰に組み合わせたら、誰も見たことがない作品になった。


――それはいろいろ知っているのが重要ということですか?


参照性の高さ=知識を持っているのがすごいという時代もありました。オタクはすごい(=庵野秀明はこんなにマニアックなことを知っているからすごい)と言われた時代が長く続いたんですけど、今は少しモードが変わっていて、「どう組み合わせるか」に主眼は移っていると思います。これはネットが普及したせいだと思うんですよね。なんでもググれば出てくるので、それをどう組み合わせるのかが大事。印象的なのは『チェンソーマン』の藤本タツキさんでしょうか。藤本さんはいろんな過去のカルチャーを貪欲に取り込んでいる感がありますけど、元ネタが何かよりも、どう組み合わせるかがすごいんです。


――ここのところ生成系AIが脚光を浴びていますが、組み合わせのアイデアに作家性が出るのであれば、一次創作も二次創作も人間にしか作れない作品がまだまだ生まれそうですね。


そうですね。結局、いつかみんな気づくと思うんですよ。たとえば音楽なら、DTM(デスクトップミュージック)が流行ったとき、もう楽器を弾けなくても音楽を作れるじゃん、みたいに言われましたけど、結局は機材をどう使うかが重要だった。楽器を弾かなくても作れるかもしれないけど、組み合わせのアイデアがものを言う。


絵だって、デジタルで描いたら、もうペンとか使わなくてもよくなるかもしれないけど、その使い方がうまくないといけない。AI絵師の話ですごくおもしろいのは、現在のAI絵師にマンガは描けないんですよね。人間がコマ割りをしてあげなきゃいけない。つまり、AIが絵を生成しても、切り貼りや順序、どのコマを大きくするかの判断は人間がやらなければいけないんです。もちろん、ゆくゆくはコマ割りができるAIも登場すると思うけど、そうなったとしても、結局はそのAIをどう使うかという話になると思います。


だからAIが人間に取って代わることはないと思いますね。AIがやってくれることが増えたとしたら、じゃあそれを使って人が何をするかという話になる。それに今のところ、人がいいと思うかどうかって、本当はAIは判断できてないんですよ。良さや悪さを含めて、価値判断や周辺の文脈を作る部分は、人間の仕事ですし、こういう時代だからこそ、ますますそれが重要になっていくと思います。



【ゆっくりインタビュー】


 

さやわかさん

ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『世界を物語として生きるために』(青土社)、『僕たちのゲーム史』『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)など。『スター・ウォーズ:ビジョンズ のらうさロップと緋桜お蝶』で脚本、『キューティーミューティー』『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれも作画:ふみふみこ)でマンガ原作を手がける。

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