『バーチャファイター2』
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ソニーの「プレイステーション」とセガの「セガサターン」による「次世代ゲーム機戦争」。セガの目線で当時の状況をふり返る本連載、第2回の舞台は1995年。のちのゲーム業界を変えた取り組みや、プレイステーションVSセガサターン第2ラウンドの舞台裏など、重要なトピックをカバー。今回も現役セガ社員の奥成洋輔さんだから書ける、貴重な情報満載でお届けする。
ソニーが変えた、広告・プロモーション戦略
プレイステーションの登場によって、ソニーはゲーム業界にいくつかの変革を促したと言われる。1つはゲームの主流を2Dから3Dにしたこと。次に流通改革によるリピートのしやすさ、定価販売の義務付け(後に廃止)、同時に高騰していたソフトの価格帯を下げたこと。そして、なんといっても広告・プロモーションの拡大だ。
TVゲームのCMは、これまでもゴールデンタイムや子供向け番組の中で見ることができたが、プレイステーションの宣伝はそんなものではなかった。TVを付けていればつねに繰り返し見るような投下量だった。さらに渋谷や新宿の街中や主要駅構内などの看板広告を大量に確保、TVも街もプレイステーションが染め上げた。
また広告の内容も、商品の魅力を直接的に伝えるものではなく、あくまでイメージ戦略の一環で、肝心のゲームの画像は隅にちょっとだけ、なんていう宣伝もこのとき始まった。海外ではともかく、日本でここまでの宣伝量は見たことがなく、もはや暴力的とすら言える物量だった。しかもこの広告攻勢は年を明けた1995年以降もずっと続いた。
これらの変革はプレイステーションを発売するソニー・コンピュータエンタテインメントが、ソニー・ミュージックエンタテインメントから生まれた会社で、音楽業界の方法論で仕掛けたためだと言われているが、それだけではなく、ケタ違いの人員と予算で過去とは一線を画していた。これにより新参ハードだったプレイステーションは、誰でも聞いたことのある圧倒的な知名度を手に入れた。
そんな発売初期のプレイステーションのヒット作は『リッジレーサー』が筆頭だったが、1995年の元旦に発売した(実際は年末に買えたが)タカラの『闘神伝』もスマッシュヒットとなった。『バーチャファイター』以降、セガ以外で初めて登場した3D対戦格闘が、94年末にアーケードで先に登場したナムコの『鉄拳』と、この『闘神伝』だ。『鉄拳』もプレイステーションの技術で作られた業務用ボードを使っており、「プレイステーションがあればどんな3Dゲームも作れる」という、参入メーカーの期待は現実のものとなった。
そしてプレイステーションを選んだユーザーは、待ってましたとばかりに『闘神伝』を楽しんだ。格闘ゲームとしての駆け引きはシンプルなものだったが、必殺技や武器攻撃など、『バーチャファイター』があえてそぎ落とした2D格闘おなじみの演出が3Dでは新鮮に映る。プレイステーション専門雑誌は、こぞって『闘神伝』を絶賛した。そしてこの成功は、プレイステーションでなら無名のタイトルでもヒット作が生まれるというイメージづくりにも貢献し、プレイステーションはいよいよ「勝ちが見えるハード」になってきた。
セガの変革① クリエイターのブランド化
さて一方セガは、ソニーの何分の一かの人員と予算ではあったが、独自のポリシーを持って着実にセガサターンを前に進めた。このときセガが行った改革は、あまり振り返られることもないので、ここで触れておきたい。
まず1つは「社内クリエイターの実名露出」である。それまでのTVゲーム業界では、ソフトの中に開発者である社員の実名を掲載することは稀だった。エンディングに映画のようなスタッフロールがあったとしても、そこにはハンドルネームのような偽名が表示された。
あの世界中で大ヒットした『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』でさえ、今なら誰もが知っている開発者の中裕司氏や大島直人氏の名はスタッフロールで見ることはできず、「YU2」「Bigisland」などという偽名で表示された。本名を明かさせない理由は、もっぱら他社からの引き抜きを避けるためと言われていた。
しかし一方で、90年代になってからクリエイターのブランド化も進んでいた。セガも傘下にクライマックスやトレジャーなど、大手から独立した実力あるスタッフが興した開発会社と提携し、彼らの名をプロモーションに利用しているという矛盾もあった。
次世代機・セガサターンの表現力はもはや映画にも追いつこうという中で、セガはこの方針を転換し、ゲームも「作品」であるとして、作り手の存在をはっきりと表に出すことにする。94年末以降、ゲームのスタッフクレジットには社員であってもすべて実名が表記されるようになった。
これに合わせてプロモーションの方法も変化する。1995年3月に発売された『パンツァードラグーン』は、オリジナルタイトルではセガサターン最初のヒット作となった。独特の異世界の魅力とそれを表現したリアルタイム3D映像が評価されたが、開発スタッフたちは発売前から雑誌に登場している。
管理職や広報担当が代弁して答える旧来のインタビュー記事はこれ以降減り、プロデューサー、さらにはプランナー、デザイナー、プログラマなど現場の各リーダーが誌面で生の声を語った。もちろんこれは社員の士気高揚にも貢献していたに違いない。本作の開発チームを示すコードネームに過ぎなかった「チームアンドロメダ」は、注目すべき開発チームとして知名度を上げていった。
『パンツァードラグーン』は発売後間もなく続編の開発が決定。正統続編となる「ペルセウス」と、この世界観を生かしたRPG「リバイアサン」という2つのチームに分かれ、3部作として始動する。
当時の専門誌『セガサターンマガジン』に掲載されたクリエイターへのインタビュー。なお『セガサターンマガジン』ほか、セガ専門誌を総括した本『セガハードヒストリア』が今月発売予定。画像クリックで商品ページへ
セガの変革② レーティングマークの導入
セガのもう1つの変革が、ソフトに推奨年齢を示すレーティングマークを付けたことだ。日本で本格的に導入したのはセガが初めてだった。
実はアメリカでは一足早く1994年秋にゲームのレーティングを決める業界団体「ESRB」が発足している。ここで中心となって動いたセガが、日本でも基準を設けることにしたのだ。このレーティングはセガサターンの発売と同時に、セガハード向けのすべてのソフトを審査することが義務付けられた。
レーティングがスタートしてから半年後、社内でちょっとした騒ぎがあった。6~7月に発売予定だった2本のセガタイトル『真・忍伝』と『ブルーシード 奇稲田秘録伝』の2作が、どちらも「18歳以上推奨」という、現在のCEROレーティングでいうところの「D」区分にあたる極めて高い審査結果になったためだった。
『真・忍伝』は人気の忍者アクションゲームの新作で、プロのアクターを実写取り込みしたリアルな映像のゲームを目指したのだが、敵忍者を倒すと袈裟斬りで切断される演出が残酷だと指摘を受けた。
一方の『ブルーシード』は、夕方18時に放送されたTVアニメを題材としたカードバトル・アドベンチャーだ。問題となったのは戦闘アニメ内でヒロインのパンチラシーンがたびたび登場すること、またアドベンチャー移動時に隠しキャラクターのような収集要素として「いろいろなプリントのパンツを集める」というギミックがあったことだった。アニメ作品ではおなじみの、いわゆる「サービスシーン」だったが、当時TVアニメでも少しずつこれを問題視する風潮ができてきた頃だった。
対象年齢が上がるということは子供が買いにくくなり、ソフトの売上に影響が出る。特に『ブルーシード』はメインターゲットが中高生だったため、ディレクターは頭を抱えてしまった。
このレーティングの審査を行う部門は、同じセガ社内ではあるものの、組織上独立しており、社内のどんな圧力にも屈しない権限が与えられていた。ディレクターは異議を申し立てたものの、最初の判定が覆されることはなく、ソフトも完成間近であり修正が困難な内容でもあったため、2作は審査結果の通り発売されることになった。ゲームの表現力の向上とともに、その影響を意識した開発も求められることになったのだった。
なおこの活動は8年後、「コンピュータエンターテインメントレーティング機構(CERO)」として業界全体へと拡大し、TVゲームの発展に寄与した。セガサターンとプレイステーションの誕生は、さまざまな形で今に続くゲーム業界への影響も与えていたのだった。
売上100万台を先に達成したセガサターン
さて話を戻そう。1995年は、春にセガサターン版『デイトナUSA』 VSプレイステーション版『鉄拳』という、ハードのローンチとは逆の、対戦格闘とレースゲームの立場を変えた第2ラウンドがスタートした。
先手を打ったのはプレイステーションだった。「いくぜ! 100万台」という威勢の良いキャッチコピーのCMとともに、ショップの店頭にはソニーの16:9ワイドテレビ什器を多数設置し、『鉄拳』と『リッジレーサー』の画面が町中に並んだ。
実はこの時点でのハードの実売台数は、セガサターンがプレイステーションをわずかに上回っていたのだが、ソニーは先に「100万台」という具体的な数字を使って宣言することで、あたかも先行しているかのイメージを世間に与えることに成功した。
さらに続く5月。アメリカのゲームショー「E3」において、ソニーはプレイステーションを9月に「299ドル」で発売する発表をする。これは直前に発表されたアメリカでのセガサターンの価格「399ドル」に対抗した価格だった。
セガが任天堂、メガドライブとスーパーファミコンによる互角の戦いが続いていた欧米市場だったが、日本で始まった次世代戦争の話題は伝わっており、既に前情報で盛り上がっていた。その影響かメガドライブ市場を延命させるために発売した“半”次世代機ともいえるパワーアップブースター「32X」は買い控えられ失敗。
むしろ新ハード展開をするセガに戸惑った客は任天堂を選ぶようになる。北米の強い要望で開発された「32X」計画は逆に命取りとなって、早々に打ち切られることとなった。あわててセガサターンを前倒しして投入することを決めたところでのこのソニーの発表があり、海外でセガは次世代機でソニーに出鼻をくじかれる格好となった。
さらにこのアメリカでの告知を受け、日本でもソニーは本体価格を7月から1万円下げた2万9800円にすると発表。発売から僅か半年で大きな値下げを発表するというのは、これまでの常識では考えられないことだった。
セガの動きは早かった。すかさず翌6月に「ありがとう100万台」と、先に到達したことをアピールしたキャンペーンを展開。同時にソニーよりも1カ月早く本体価格を1万円下げた。さらに本体装着率100%以上とも言われた『バーチャファイター』に、『鉄拳』と同様のテクスチャーマッピングを施したアレンジ版新作『バーチャファイターリミックス』を同梱するという大盤振る舞いで応戦した。さらに夏になると「セガールとアンソニー」というチンパンジーを使った比較広告風CMを公開。ソニーへの対決姿勢を露わにした。
一方、次世代機について沈黙の続く任天堂はこの頃、発売を1996年春に延期することを発表。1995年末もこの勢いのままセガサターンとプレイステーションの一騎打ちになることが確実となった。
1995年年末 プレイステーションとの天王山
夏になると双方切れ目なくタイトルが投入された。プレイステーションの『アークザラッド』とセガサターンの『リグロードサーガ』による、オリジナルのシミュレーションRPG対決が目玉だったが、ほかにもプレイステーションの『アクアノートの休日』『機動戦士ガンダム』『エースコンバット』など3Dを生かした話題作が登場。
対するセガサターンは『シャイニング・ウィズダム』『魔法騎士レイアース』など、これまで弱点としていたRPGをあえて推したが、どちらもセガからの発売で、サードパーティーの有力タイトルはなかなか出現しなかった。
続く秋はセガサターンの『シムシティ2000』と『ワールドアドバンスド大戦略』に対し、プレイステーションは『ボクサーズロード』『ときめきメモリアル』というSLG対決があって、どちらも堅調にハードの普及台数を増やす。そして発売から1年、年末商戦が再びやってきた。
プレイステーションの年末の筆頭は1年前に出たヒット作の第2弾、ナムコの『リッジレーサーレボリューション』とタカラの『闘神伝2』、カプコンの『ストリートファイターZERO』などがラインナップ。中でもセガの開発子会社であった株式会社ソニックのスタッフが社内分家して作ったRPG『ビヨンド ザ ビヨンド』は、セガに衝撃を与えた。
なおソニーはこのタイトルの広告を、当時セガの本社へ行く際に必ず乗り換える必要があった京急蒲田駅の空港線プラットフォームの看板へわざわざ展開したことも忘れられない思い出である。
しかしセガサターンの年末商戦は盤石だった。まずこの1年に出たアーケードのヒット作を全部出したというラインナップが並ぶ。光線銃「バーチャガン」を同梱した『バーチャコップ』、レースゲーム『セガラリー・チャンピオンシップ』、そしてリリースから1年経ってもなお人気が衰えることを知らない怪物的ヒット作『バーチャファイター2』である。
さらに、ここにきてようやくサードパーティーの人気タイトルが登場。アトラスの人気RPG『真・女神転生デビルサマナー』、カプコンの『X-MEN』、タイトーの『ダライアス外伝』に、バンダイの『機動戦士ガンダム』(夏に出たPS版とは別作品)。さらには1年前のプレイステーションのヒット作『闘神伝』までをセガ自身で移植するというラインナップが実現した。
さらにダメ押しで本体の5000円キャッシュバックキャンペーンまで開始。セガとしてはこの1995年末商戦が対プレイステーションとの天王山だった。この戦いに勝利して来年の任天堂の次世代機との戦いへ臨むのだ。
そしてその結果は……セガサターンの大勝利に終わった。あまりに売れすぎて、大量に用意した本体の在庫がなくなってしまったほどだ。本体の販売台数は200万台を越え、『バーチャファイター2』は次世代機向けソフトで初めて100万本を越えるヒットとなった。完全勝利であった。
社員全員が喜びに沸き立った。日本で初めてセガが勝利した年末商戦だった。みんな笑顔で1996年の元旦を迎えることができた。そう、あのテレビCMを見るまでは。
『バーチャコップ』(1995年6月の東京ゲームショウ/画像提供:セガ)
『セガラリー・チャンピオンシップ』(1995年9月のアミューズメントマシンショー/画像提供:セガ)
大々的に宣伝された『バーチャファイター2』『リグロードサーガ』(1995年6月の東京ゲームショウ/画像提供:セガ)
【追記】
本コラムにも登場した『ブルーシード 奇稲田秘録伝』のディレクターで、この後に初代『サクラ大戦』のディレクターとして活躍される竹内靖さんが、7月3日に永眠されました。竹内さんはそのほかにも『AZEL パンツァードラグーンRPG』、ゲームギアの『ドラゴンクリスタル ツラニの迷宮』『シャダム・クルセイダー 遥かなる王国』、ドリームキャストの『ドリームパスポート』シリーズなど多数のプロジェクトにおいて、プランナー、ディレクター、プロデューサーとして活躍され、セガのCSタイトルを支えた素晴らしい先輩でした。謹んでお悔やみ申し上げます。
奥成洋輔(おくなり・ようすけ)
1971年生まれ。1994年に株式会社セガ・エンタープライゼス(現・セガ)入社。2000年DC『エターナルアルカディア』でアシスタントプロデューサーを担当、2004年にPS2『サクラ大戦V EPISODE 0 ~荒野のサムライ娘~』を初プロデュース。2005年以降旧作の復刻を数多く手掛ける。主な作品にニンテンドー3DS「セガ3D復刻プロジェクト」シリーズ、『メガドライブミニ』『ゲームギアミクロ』など。